護王神社

「護王神社」

 

 神護景雲3年(769年)「道鏡を皇位に就かせれば天下太平になる」との趣旨の宇佐八幡宮からの神託が称徳天皇へ奏上された。いわゆる皇位簒奪を企む弓削道鏡事件の発端だ。
 奏上を受けた称徳天皇は信託が事実であるか確かめる為に側近の法均尼(和気広虫)を遣わそうとするが、長旅となる為、代わりに法均尼の弟である和気清麻呂を宇佐八幡宮へ遣わした。
 宇佐八幡宮を訪れた清麻呂だったが、清麻呂は奏上された先の神託とは正反対の「道鏡を排除すべし」とする趣旨の神託を得ると、大和にとって返し天皇に奏上した。
 これにより道鏡の企みは挫かれ、皇位を護った清麻呂は忠臣と称えられた。

 そんな清麻呂を主神として祀るのが、京都御苑の西、蛤御門の南に烏丸通に面して鎮座する護王神社だ。
 護王神社の創始を辿ると、高雄の神護寺に至る。
 そもそも神護寺は清麻呂が叡暦年間(782~806)に河内国に和気氏の氏寺として創建した神願寺を、天長元年(824)に清麻呂の息子である真綱等の奏上によって高雄に移建し、神護国祚真言寺と改めたことに始まる。
 その神護寺が平安末期に荒廃していたのを文覚が復興した際、鎮守社として清麻呂を「護法善神」として祀る祠を建てたのが護王神社の創始といわれる。
 その後、神護寺境内でひっそりと祀られてきた「護法善神」だったが、江戸末期の尊王思想の高まりが転換期となる。嘉永4年(1851)に孝明天皇によって、正一位護王大明神の神号を授けられると、引き続き明治7年(1874)には「護王神社」と改称して別格官幣社に列せられた。
 更に明治19年(1866)には明治天皇の勅命により華族中院家邸宅跡地であった現在地に社殿を造営、遷座し、神護寺の鎮守社であった護王神社は、神護寺を離れ独立した社を営むに至った。
 現在、護王神社には清麻呂の姉広虫が主神として合祀され、藤原百川と路豊永が配祀されている。

 そんな皇統を護った清麻呂を祀る護王神社だが、現在は足腰の守護神、また亥年の守護社として信仰を集めている。
 烏丸通に面した表門から入ろうとすると、まず迎えてくれるのが左右に配された狛犬ならぬ狛猪だ。また鳥居の直下には御千度車と呼ばれるチベット仏教のマニ車の様な、経文の刻まれた回転する円筒が付いた石柱があり、面には「足萎難儀回復御守護」と刻まれている。
 なぜこのような信仰が生まれたかというと、清麻呂の忠臣と称えられるまでに至る苦難が道のりが関係している。
 上記した通り、清麻呂は宇佐八幡宮を訪れ道鏡を排除すべき神託を称徳天皇へ奏上した。実はこの時、道鏡を寵愛し太政大臣にまで引き立てていた称徳天皇は、自身の望む神託を伝えなかった清麻呂に激怒したと伝わる。
 称徳天皇の逆鱗に触れてしまった清麻呂は左遷させられるが、それでも称徳天皇の怒りは収まらなかったのか、清麻呂の足の腱を切った上に、名を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させ現在の鹿児島県の一部である大隅国に流罪としてしまった。また清麻呂と同様、姉である法均尼も還俗させられ名を広虫から狭虫(さむし)(日本後紀。続日本紀では広虫売(ひろむしめ))と改名させ備後へ流罪とした。
 穢麻呂に狭虫。その執拗なまでの貶めに、称徳天皇の怒りの深さが伺える。
 さて、足の腱を切られ自力で立つことができなくなった清麻呂は輿に乗って流罪の地である大隅国へと旅立つが、その一行を道鏡が差し向けた刺客が付け狙った。大隅に赴く前に宇佐八幡宮を訪れようとした清麻呂一行だったが、遂に刺客が襲撃を企てようとしたのか、その危機を察知したかのように、どこからともなく三百頭に及ぶ猪が現れると一行を護るように取り囲み、宇佐八幡宮への十里の道のりを導き無事に清麻呂一行を宇佐八幡宮へ届けると、山中に姿を消したという。お陰で無事に宇佐八幡宮に到着した清麻呂だったが不思議と足萎えが回復し、自力で歩くことができるようになったという。
 更に翌年には清麻呂を罰した称徳天皇が崩御し、後ろ盾を失った道鏡は失脚。皇統を継いだ光仁天皇によって清麻呂は官位を復され、桓武天皇の頃には平安京の造営大夫に任命され遷都事業に尽力した。

 この様な伝説から護王神社の門前を護るのは狛犬ではなく狛猪であり、境内には猪のモニュメントが溢れ、足萎えが回復した清麻呂の故事から足腰の守護神として信仰を集めている。
 また私見ではあるが、祀られる神の生前の行いがご利益に繋がるのであれば、一度挫折した後の捲土重来の祈願もまたご利益があるのではないだろうか。ただし『清廉であったが故の挫折』に限られるかもしれないが。。。

 なお、合祀されている姉の広虫は孤児83人を引き取り養育したことから子育明神として崇められ、子育て・子供の成長の守護神として信仰を集めている。

 近年、平均寿命ではなく健康寿命を延ばそうという試みがあるようだ。
 健康寿命とは心身が健康で、日常生活に制限がないことをいうそうだ。
 日本は世界1位の長寿国だが、平均寿命と健康寿命の差、いわゆる日常生活に制限がある「不健康な期間」が、厚生省の発表によれば平成22年段階で男性が9.13年。女性で12.68年に及ぶそうだ。
 「日常生活の制限」には様々な要因があるだろうが、その代表的なものが歩行困難ではないだろうか。
 もちろん、日常生活に制限があるからといって命そのものの価値は不変であるだろうが、それでも生きいている以上は自由な歩行を行いたいものだと個人的には願う。
 となれば、足腰守護の護王神社こそ、祈願所としては最適だろう。
 様々な信仰を受ける護王神社だが、健康寿命の長寿という新しい潮流も加わえ、これからも人々の厚い信仰を受け続けるだろう。

 関連作品:京都にての物語「立つ!

(2015/08/26)

護王神社ホームページ⇒http://www.gooujinja.or.jp/

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