神光院

「神光院」

 

 神光院(じんこういん)は東寺、仁和寺と共に京都三弘法に数えられ「西賀茂の弘法さん」として親しまれている。
 伝わるところによれば、弘法大師42歳の夏、当寺にて90日間修業をし、去る際に別離を惜しむ人々の為に、境内の池に自らの姿を映して自像を刻み「爾今、我を信する者は老若男女の別なく諸病厄災を除くであろう」と誓願したといい、その際に彫った自像が今も本尊として安置されているといわれ、厄除けの寺として信仰を集めてきた。
 神光院の厄除けで有名といえば、毎年7月21日と土用丑の日に行われる「きゅうり封じ」だろう。厄除けの祈祷を受けた後、氏名と数え年を記入した紙でそのきゅうりを包み、家に持ち帰って身体の悪いところを撫でた上で、庭などに埋めることにより病気を封じこめるという風習だ。境内には「きうり塚」もあって、厄除けの寺の一端を担っている。

 創建は建保5年(1217)。この地には元々御所に奉納する瓦製造職人の宿所に使われていた「瓦屋寺」があったそうだが、筑紫の行円上人と上賀茂神社の神主であった賀茂能久がこの地に光が放たれる同様の霊夢を見たことにより、神託として受け、一説によれば元々上賀茂神社にあった一宇を移し、大和国から僧侶の慶円を招いて創建したと伝わる。以後、真言密教の道場となって栄えたという。

 ・・・ん?なんかおかしい。
 神光院の創建は建保5年ということであれば、弘法大師の逸話は瓦屋寺と呼ばれていた頃のことになるのか。
 高野山真言宗のサイトによれば、弘法大師42歳は弘仁6年(815年)。当時、弘法大師の拠点は高雄山寺(現在の神護寺)にあり、東国の化主とよばれていた僧の徳一らへ密教教典の書写を依頼するなど、密教の布教で多忙にしていた頃だ。そんな時期に、なぜ瓦製造職人の宿所に使われていたような寺へ90日間も修行に訪れたのであろうか。。。
 もちろん、瓦屋寺と呼ばれていた時期を特定できないので、弘仁6年当時、この地には弘法大師が修行を行うに適した環境が整っていた可能性はある。だが、もしそのような環境が整っており、且つ90日間もの間拠点を高雄山寺から、この地へ移して修行を行っていたのであれば、何らかの歴史的痕跡が客観的に残されているのではないだろうか。残念ながら、神光院関連以外の記述において、逸話に沿った記載を参考書籍、参考サイトでは見つけることはできなかった。
 つまりは、弘法大師の逸話は神光院の創建後の権威付けなのではないだろうか・・・と思った訳だが・・・んん?色々調べていたらどうも風向きが変わってきた。どう変わってきたかというと、注目すべきは上記した「一説によれば元々上賀茂神社にあった一宇を移し」という部分だ。上賀茂神社にあった一宇とは――調べてみると、弘仁11年(820年)嵯峨天皇の勅により上賀茂神社に神宮寺が創建されたという。ちなみに神宮寺とは、神仏習合思想に基づき、神社に附属して建てられた仏教寺院のこと。
 そして嵯峨天皇といえば、大陸帰りの弘法大師を引き立てた張本人だ。一つの仮説として、上賀茂神社の神宮寺創建に弘法大師が関わった可能性はないだろうか。弘法大師が直接関わっていないにせよ、真言密教系の神宮寺であった可能性はあるのではないだろうか。もし嵯峨天皇からの弘法大師に神宮寺創建に当って協力の要請があったとするならば・・・。
 つまり、弘法大師は現在の神光院の地にて修行をしたのではなく、ここで神光院の前身と推測する上賀茂神社の神宮寺創建に関わりがあったのではないだろうか。
 ではなぜ「上賀茂神社にあった一宇」が、現在の神光院に移されることになったのだろう。調べてみると、神光院創建の年に上賀茂神社で式年造営が行われていたようだ。式年造営とは式年遷宮に伴う社殿の建替えのことだ。ここで一つ考えられるのが、上賀茂神社の社殿の建替えに伴い、神宮寺の建替えも行われたのではないだろうか。その古い神宮寺の建物を、上賀茂神社と繋がりの深かったという慶円に与え、神光院を創建したのではないだろうか。
 ここで上京区にある百万遍知恩寺の歴史について知恩寺のサイトより引用する。
『法然上人は今から約800数十年前、賀茂の神宮寺を居とし、洛中の人々に「お念佛」をお説きになっておられました(京都市上京区、現在の相国寺付近)。当時「賀茂の禅坊」と呼ばれ今の「百萬遍知恩寺」の前身です。』
 普通、神宮寺というと神社の境内内、もしくは隣接するイメージを持つが、どうも上賀茂神社は境内から離れた地にも神宮寺を所有していたようだ。
 となると、神光院も上賀茂神社の神宮寺として創建されたと考えることはできないだろうか。俗世間的にいうと、勢力拡大の一環として。。。

 想像に想像を重ねて語ってきた「神光院=上賀茂神社の神宮寺」説。
 だが残念ながら、後に醍醐寺金剛王院の覚済が院主に就いたことから醍醐寺末に属することとなったことや、天保年間(1830~43)に災火により堂宇を焼失したことにより、現在、説を裏付けるものは残っていないだろう。

 明治期、京都の地にも廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる。その嵐に上下賀茂社も巻き込まれ、両社の神宮寺は悉く廃絶してしまった。そして、その関係性は不明だが――神光院も廃絶の憂き目を見る。
 神光院が再興されたのは、明治11年(1878)。廃絶以前から住職を務めていた和田月心によって再興され、現在は醍醐寺を離れて単立寺院となっている。

 こう妄想を膨らませてみると、弘法大師が90日間修行したという逸話には無理があるように思えるが、現在も本尊として祀られている弘法大師像はもしかしたら・・・などと思えてしまう。
 ただ残念ながら、上記で偉そうに書いてしまった客観的史料がある訳ではないので個人の推測の域を出る事はないが、最初に記述したような一般に語られている神光院の由来よりかは、それなりに筋が通ったように思え自己満足。。。
 なお京都三弘法の信仰は、京の三弘法めぐりとして江戸中期に始まったようで、少なくとも江戸中期には京都を代表する弘法信仰の地であったことが伺える。

 以上のような下世話な推測をしてしまったが、現在の神光院の見所は、四季を通じて境内を彩る様々な花木であり、後はなんと言っても大田垣蓮月が晩年を過ごしたとされる茶所「蓮月庵」だろうか。(※大田垣蓮月については京都にての人々『大田垣蓮月』、京都にての歴史物語『大田垣蓮月~花の下臥~』を参照頂けたら幸いです。)

 ただ、神光院は多くの観光客を集めるというよりも、あくまでも地元の方々に愛される寺院という印象を抱く。
 蓮月は来訪者の煩わしさから逃れるために神光院に移り住んだという。
 そんな蓮月の動機を基に考えると、「蓮月庵」の鄙びた佇まいが溶け込む静かな境内こそ、神光院の趣といえるかもしれない。

 関連作品:京都にての物語「で、どうするの?

(2017/09/16)

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