「田中新兵衛」

 

 幕末の京都に四大人斬りあり。一人は土佐の岡田以蔵。一人は肥後の河上彦斎。一人は薩摩の中村半次郎。そしてもう一人が、同じく薩摩の田中新兵衛。
 その生まれは元々武士ではなかった。薬種商の子、もしくは船頭の子と言われるが、薬丸自顕流を修めてその腕前を見込まれ藩士の列に加わった。
 後に上洛した新兵衛は早速動き出す。今太閤とも呼ばれ京都で大きな力を振るっていた九条家の家令である島田左近を暗殺したのだ。これが後に天誅の魁と呼ばれるようになり、新兵衛の名は上がった。更に土佐勤王党の盟主である武市瑞山(武市半平太)と義兄弟の契りを結ぶに及び、岡田以蔵と組んで本間精一郎を、京都町奉行与力渡辺金三郎、大河原重蔵、森孫六、上田助之丞らを東海道石部宿において襲撃し殺害した。まさに京都を襲った天誅の嵐の中心に新兵衛はいたのである。
 しかし、そんな新兵衛もついに捕まる時がきた。それが公家姉小路公知が御所の朔平門(さくへいもん)外で暗殺された朔平門外の変(猿ヶ辻の変)だ。
 事件の状況を拙作「人斬りの誇り」から引用する。
 「時は文久三年(一八六三)五月二十日の深夜、朔平門を出た公知一行を三人の男が襲撃した。まず一人が正面から公知を襲う。勇敢にも公知はこの男の刃を中啓で受け流し「太刀!」と叫んだが、太刀持ちは恐れて逃げてしまい、代わりに雑掌(ざっしょう)の吉村左京が抜刀の上応戦し襲撃者と遁走させるが、その隙に残りの二人が公知に襲い掛かり、深手を負った公知は屋敷に帰り着くものの、昏倒しそのまま息を引き取った。この際、現場に襲撃者の刀と下駄が残されたのだが、その刀が新兵衛の差料である奥和泉守忠重であり、下駄は薩摩下駄であったという」
 差料と下駄が証拠となって新兵衛は会津藩士に捕縛され、京都町奉行所に送られた。そして取調べを受ける中で新兵衛は黙秘を続けていたが、一瞬の隙をついて己の差料を奪い取り自刃してしまった。享年32歳であった。

 さて、この事件は結果として後に八月十八日の政変を招いた呼び水的な事件であったとされ、歴史的にも非常に大きな意味を持った。この事件の真相について迫ろうとすると、どうやら各勢力の思惑が渦巻いていてとってもややこしい話になっているのでここでは割愛してあくまでも新兵衛の話に戻すと、一つの謎がある。実は証拠となった新兵衛の差料が、数日前に盗まれていたという話があるのだ。つまり、新兵衛は何者かにより嵌められて犯人に仕立て上げられてしまったというのだ。確かに暗殺に慣れた新兵衛にしては、差料を現場に残すなど手際が悪すぎる。まぁ、猿も木から落ちるし、河童も川を流れる。もしかしたら何かの切っ掛けでそうなってしまったのかもしれない。だが、どうしても管理人が納得いかないのは、残された薩摩下駄の存在である。暗殺を実行するのに下駄?町中で偶発的に襲うのではなく、あくまでも夜陰に乗じて襲っているところを考えれば、それは計画性をもっており、準備の時間は充分にある筈だ。あくまでも素人考えだが、暗殺するのに下駄では動き辛いだろう。もちろん当時の人間は下駄は履き慣れていたので動きに問題ないと考えたのかもしれないが、それにしてもどうも釈然としない。
 もしかしたら新兵衛が相手が公家と侮ったのかもしれない。それ故の不手際だったのかもしれない。
 もしかしたら襲撃時には下駄を脱いで裸足になったのだが、思わぬ反抗を受けて回収できぬままになってしまったのかもしれない。
 もしかしたら「ちょっと茶でも飲まない?」的な気軽さで誘われて準備が整わなかったのかもしれない。

 考えれば考えるほど可能性は膨らみ、疑問は多くなる一方だが、現時点で学術的には新兵衛真犯人説が有力なようだ。
 ともかくも因果応報というか、人斬りの最後は一筋縄ではいかなかったようだ。
 政治の大流に巻き込まれた時、いくら優秀な人斬りも無力だったようだ。

(2008/09/11)

<田中新兵衛縁の地>

 ・田中新兵衛が姉小路公知を暗殺したとされる猿ヶ辻が残る。
  京都御苑ホームページ⇒http://www.env.go.jp/garden/kyotogyoen/

京都にてのあれこれへ トップページへ