永観堂

「永観堂」

 

 永観堂といえば古来より「モミジの永観堂」として有名であり、現在でも寺域に三千本もの楓が植わっていると聞けば、時期にはさぞかし壮観な景色を見ることができるだろうと思う。境内にある臥龍廊から眺めてみたならば、まさに境内が燃えているように見えるだろう。だが――それ故に人出の多さを考えると管理人は二の足を踏んでしまう。絶対人に酔うって!
 確かに紅葉も魅力的である。けれど、管理人はあえてもう一つの見所である見返り阿弥陀をお薦めする。永観堂は紅葉の時期を外せば至って静かなお寺である。もちろん団体観光客でもいれば人口密度は増えるが、それさえなければ静かにゆっくりと訪れることができる。そんな静かな雰囲気の中で見返り阿弥陀と対峙してみよう。そしたらきっと、面白い体験ができるかも。

 永観堂は正式には禅林寺という。その興りは藤原関雄の山荘を空海の弟子である真紹が寺に改めたのが始まりとされ、貞観五年(863)には清和天皇の勅額を賜って禅林寺と号した。その後、永観堂という名称の元になった永観が中興の祖として入り、応仁の乱では兵火に合うが、後に再興されて現在に至る。

 さて、面白い体験というのは他でもない。見返り阿弥陀に叱ってもらえるのだ!
 『――永保2年2月15日の早朝、永観律師がいつもの通り、一心不乱に念仏行道をしておられると、本尊の阿弥陀仏が壇上より降り、先導する様に行道をはじめられたので、夢ではないかと不思議の思いに立ちどまると、それを見とがめられた阿弥陀様が、左に見返りつつ「永観おそし」との呼びかけに、ふと我に帰って、まのあたりに顧みておられる尊容を拝して「奇瑞の相を後世永く留め給え」との願いを聞き届けられたと伝える――』(阿弥陀堂説明書より引用)
 阿弥陀堂に入って見た見返り阿弥陀の最初の印象は、横を向いたちょっと奇抜な形をした仏様ぐらいな感じだった。体長も77センチと思ったよりも小さく、威厳といったものは感じなかった。
 ところが、順路に従って正面から見て右手(見返り阿弥陀の左手)に回り、須弥壇の上の見返り阿弥陀を見上げてみると、見返り阿弥陀と目が合った。そして管理人は見返り阿弥陀に見据えられていた。その見据えた表情から発せられた言葉は「遅し!」というお叱りの言葉だった。もちろんそれは、鼓膜を響かせて脳に伝わるような音として響いてきたわけではない。またそれは、奇跡的な天からのテレパシーというわけでもない。それは明らかに管理人の内側から生まれた幻聴であるのだが、その幻聴を引き出したのは間違いなく見返り阿弥陀であった。管理人は見返り阿弥陀のお叱りが耳に痛く、その場にいるのが居た堪れなくなってその場を離れたのは情けない話である。
 次に須弥壇の背後を通って見返り阿弥陀の右手に出る。すると、そこにはちょっとした面白い光景が待っている。 先ほどと同じように須弥壇の上の見返り阿弥陀を見上げてみると、そこには後頭部を晒したちょっとお間抜けにも見えるような見返り阿弥陀の姿があった。通常は仏像の後ろに回っても、後光などに遮られ仏様の後頭部を拝むなど稀なことだが、ここではそんな珍景が拝める。しかし、ここではそう微笑ましく見ているだけではいられない。先ほどのように見据えられ叱りの言葉を惹起するような押しの強さはないのだが、却って背中を向けた見返り阿弥陀は見るものに強いメッセージを送っているように感じた。それこそ、その感じ方のマニュアルとなるような説明書はなく、人それぞれ感じ方は異なるのだろうが、見る者はその背中に何かを感じることができるだろう。それをここを訪れる一つの楽しみとしてみるのもいいかもしれない。
 最後にもう一度正面から見返り阿弥陀を眺めたと、その印象は最初に正面から眺めた印象と一変する。それは叱られた者にしかわからない見返り阿弥陀に対する親しみとでもいおうか。ともあれ、見返り阿弥陀鑑賞の楽しみは、正面→見返り阿弥陀の左手→見返り阿弥陀の右手→正面という順路を辿ってみることだ。

 最近は叱る人が少なくなったといわれる。それは叱る方も、それはそれで大層な労力となるからだ。その労力を厭わない愛情こそが、その「叱る」という行為に伴うのであるとすれば、叱る人間が少くなったということは、そんな愛情を持った人間が少なくなったということだろうか。故に、人は愛情を求める一環として、叱られたい思いにかられるのかもしれない。
 そんな叱られたい方!そんな方は一度、見返り阿弥陀と対峙してみるといいかもしれない。見返り阿弥陀は無条件であなたを叱ってくれるだろう。
 そこから何を感じ取るかは、あなた次第だ。

 関連作品:京都にての物語「見返り阿弥陀

(2008/09/18)

永観堂(禅林寺)ホームページ⇒http://www.eikando.or.jp/

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