銀閣寺

「銀閣寺」

 

 銀閣寺に対して、どのような印象があるだろうか?
 そして実際に銀閣寺を訪れてみて、どのような感想を得るだろうか?

 管理人が始めて銀閣寺を訪れたのは、おそらく中学時代の修学旅行であったように記憶している。では、訪れる前にはどの様な印象を抱いていたかというと記憶が曖昧で思い出せないのだが、ただ訪れた時の印象が余りにも薄かったことを考えると、いち中学生の心に訴えかけてくるものはなかったのだろう。
 銀閣寺という名が先行して、金閣寺の豪華なイメージと重なり合い、その姿は銀箔に覆われ白銀に輝いていると思い込んでいる人もいるだろうが、その姿には銀箔の欠片もなく、とても質素な佇まいだ。銀箔の有無については、計画段階では銀箔を貼る予定だったが、足利義政が逝去した為、もしくは金銭的な問題で実現しなかったという説があるが、近年行われた科学的な成分分析の結果、銀閣の壁面には一切銀箔が貼られた痕跡がないことから、銀箔を貼る計画自体なかったという説が現在は主流になってきているようだ。では、なぜ銀閣と呼ばれるようになったかというと、後世にあくまでも金閣と比較しての銀閣という意味合いで呼ばれるようになったようだ。

 銀閣寺は、正式には慈照寺という。元々この地には天台宗寺院の浄土寺があったのだが、それが後に荒廃。その跡地に室町八代将軍の足利義政が応仁の乱後、東山殿と呼ばれる山荘を築いたのが始まりで、義政の死後に禅寺に改められた。
 その後、度々の兵火により銀閣と東求堂を残してことごとく灰燼と化すが、江戸初期に至り復興され旧観を整えていき、明治期の廃仏毀釈の受難を乗り越え、現在に至っている。

 さて、印象に残らない銀閣寺と書いてしまったが、では銀閣寺の見所はないのだろうか。一般的に言われているものを、あくまでも大雑把に挙げるとするならば、銀閣、向月台と銀沙灘、東求堂、庭園の4つだろうか。
 銀閣。正しくは観音殿という。西芳寺の瑠璃殿や鹿苑寺の舎利殿(金閣)を模したとされる二階建ての楼閣。下層は「心空殿」と呼ばれ、上層は「潮音閣」と呼ばれ観音菩薩像を安置する。金閣、西本願寺の飛雲閣と並び京都三閣と評されている。
 向月台と銀沙灘。創建当初には見られなかったもので、江戸後期頃に白砂を使って作られたとされる。向月台はその上にて月が昇るのを待つとか、銀沙灘は月光を反射させるなどともいわれているが、その目的の詳細については不明のようだ。
 東求堂。銀閣と共に創建当時から残る持仏堂で、足利義政の精神世界が凝縮されている建物ともいえる。中でも有名なのが「同仁斎」と呼ばれる四畳半の書院座敷で、その額名は「人の上下の隔てなく平等に愛する」という意味であり、この四畳半という空間は、後に茶室に受け継がれていくことになる。
 庭園。西芳寺の庭園を手本にしたといわれ、室町期の代表的な書院造庭園とされる。その姿は豪華というのではなく、至って穏やかであり、一木一草にまで仏が宿るとする禅宗的な精神にのっとり、自然の姿を偽りなく素直に表しているようである。その精神は現在に至る日本庭園の根底に受け継がれている。

 と、一応見所を挙げてみたが、やはり正直、どれもいまいち管理人の印象には残っていない。
 では、銀閣寺に見所はないのか?というと、実はそうでもないようだ。銀閣寺が管理人の印象に残らなかった原因は、管理人のアプローチの仕方にあった。
 金閣のように見た目にインパクトのあるものでもあれば予備知識などは要らないが、銀閣には見た目になんのインパクトもない。ありきたりなのである。だが、実はそのありきたりこそが重要なことなのだ。
 銀閣寺に代表される東山文化は、現在の日本文化に多くの影響を与えている。上記した東求堂の四畳半や、禅宗的な精神に基づく作庭、その他にも立花、連歌、猿楽などの諸芸能に至るまで。そのように多くの影響を与えているが故に、日本人はその景色を見慣れ、銀閣寺を訪れて『ありきたり』と感じるのだ。当然だ、銀閣寺はその見慣れた景色の源流なのだから。
 ありきたりな景色の中にこそ、銀閣寺の見所はあるのだ。

 銀閣寺を実際に訪れて、その名からイメージする印象を裏切らない感想を得ることは難しいだろう。
 けれど、その存在の意味を前提に眺めたのならば、また違った印象を受けるに違いない。
 目で見て楽しむというよりも、その景色にどっぷりと浸るといった感覚で接するとよいのではないだろうか。とても居心地がいいに違いない。
 銀閣寺は世界遺産に指定されるだけの、日本文化にとって重要な役割を担っている寺院であるといえるのだ。

 関連作品:京都にての物語「月の寺

(2008/10/16)

銀閣寺(慈照寺)ホームページ⇒http://www.shokoku-ji.or.jp/ginkakuji/

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