冠者殿社

「冠者殿社」

 

 源義経に剣術を教えたのは、実はタイムマシーンに乗って過去に遡った管理人である。
――嘘である。

 実は管理人、鴨川を泳いで(しかも犬掻き!)で遡り、滝を登って龍になりました。
――嘘である。

 と、嘘を吐いてしまって、それに罪悪感を感じたならば――冠者殿社で祈ってみましょう。するとどうでしょう、その罪が許されてしまうのです!これは凄い!
 ・・・てか、誰に許されるのだろう。でもって、それでいいのか?

 冠者殿社(かんじゃでんしゃ)は四条通の南側、八坂神社の御旅所の西側にひっそりと建っている。その始まりは不明だが、現在は八坂神社の摂社であり素戔嗚尊の荒魂(あらみたま)を祀っている。また俗説として、源義経の堀川邸に夜襲を仕掛けた土佐坊昌俊を祀るともいわれている。
 さて、この冠者殿社ご利益といえば「誓文払い」が有名だ。誓文払いとは、誓文=約束を、払う=反故にしてくれるということで、つまりは約束を破っても許されるということになる。それが転じて、嘘をついても許される、という流れを辿ったようだ。ではなぜ、そのような信仰が生まれたかというと、祀られている素戔嗚尊が誓約(うけひ)神話の影響だろうが、起請の神とされている関係や、また土佐坊昌俊が義経に対して不忠なき旨7枚の起請文を差し出したにも関わらず義経を襲ったことが関連付けられているようだ。
 故に、物を売って利益を上げる商人や、色恋を多く囁く祗園の姉さん辺りの信仰が深かったようだ。

 そんなこんなで、嘘が許されて本人は万々歳。けれど、神様は許しても、実際に嘘を吐かれた方は許せるのだろうか。許さなくてはいけないのだろうか?例えば、神様が嘘を吐いた者の罪を許した代わりに、嘘を吐かれた者に代償として強運をくれるとか、もしくは手っ取り早く現物支給してくれるだとか、そういうことであれば許さなくもないが・・・とならないだろうか?
 こんな想いを察してか、商店が大安売りをするのは日頃の罪滅ぼしの為なんだとか。確かに現実的といえば現実的な償い方法である。そしてこれが、本来の誓文払いの精神なのだとか。
 ともあれ、冠者殿社の誓文払いというご利益の根本には、嘘を吐いたことに対する贖罪の精神が流れているのは間違いない。そしてそこには、嘘を罪と思えばこその冠者殿社、という解釈が成り立つ。もし嘘を罪と思う観念がなければ、嘘をついても許される必要がないのだから冠者殿社の存在価値はなくなるのである。
 嘘も方便である。けれども、それでもやはり嘘を全面的に良しとする考え方には抵抗を覚える。その心の抵抗こそが一般的な良心と呼ばれるものであり、冠者殿社を参拝する人々は自分の吐いた嘘が許されるのを願うと同時に、己の良心の確認をしているともいえないだろうか。

 冠者殿社は、良心確認の社である。
 人ごみの中で冠者殿社に頭を垂れる人々の姿は、管理人にほっとした気持ちを与えてくれる。

 関連作品:京都にての物語「誓文払い

(2008/10/23)

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