「古田織部」

 

 「芸術は爆発だ!」といえばかの芸術家岡本太郎の言葉だが、「茶道は爆発だ!」と言ったかどうかはわからいが(まぁ、言ってないだろう)、戦国期から江戸初期にかけた時代に一人の異端茶人がいた。それが古田織部という男だ。
 管理人が古田織部を知ったのは信長の野望というゲームだ。しかし、このゲーム内では古田織部、とっても使えない雑魚武将。しかし、一方茶人としての面では千利休について茶を学び、後には利休七哲の一人に数えられ、織部好みに作られた焼き物は「織部焼」として有名だ。

 古田織部こと古田重然は美濃国の生まれと伝わる。
 元は土岐氏に仕えていたが、後に織田信長に仕えるようになる。以後信長の下で代官などを勤めながら順調に手柄を挙げていき、その間に摂津茨木城主中川清秀の妹を娶っている。
 本能寺の変後は羽柴秀吉に仕えるが、この頃より利休につて茶を学び始めたと考えられる。なお、織部の父親も茶道に精通した人物でその影響により幼き頃より茶道についての下地はできていたものと考えられている。
 秀吉の下で御咄衆(おはなししゅう)として仕えながら、利休の死後は利休に代わる茶の湯の名人として重宝され「町人茶から武家流の茶に変革せよ」との命を秀吉より受け、それに取り組むようになる。
 秀吉の死後、関が原の合戦では東軍に味方し使い番の一人として佐竹義宣より人質を取るなどの功を挙げ、戦後は加増を受けている。
 徳川の時代に入っても徳川氏の庇護を受けることにより茶名人としての名声を保ち、二代将軍徳川秀忠の茶の湯指南役を務めている。この期間が古田織部の絶頂期といえるだろうか。
 大阪の陣においても徳川方に身を置いていたが、豊臣方への内通の嫌疑を受け、また織部の家臣による京都放火計画が発覚するとその責を取り、大阪夏の陣終結後の元和元年(1615)6月に72歳で自刃して果てた。

 では、古田織部の茶のどこが異端なのか。今回参考にした『古田織部の茶道』の著者桑田忠親さんは千利休と古田織部の特徴を次のように記している。
「利休好みの特徴がどこにあるかといえば、目立たぬ、しかも、よく調和の取れた美しさの表現にあるらしい。――利休好み、利休形は、奇抜ではなく、愛すべき素直さに富み、しっくりと調和の取れた、素朴な美を誇っている」
「織部好み、織部形は、目に立つ美を、あらゆる形において表現しようと努めている。利休が静中に美を求めたのに対して、織部が動中に美を求めようとしたところは、やはり武人としての本質から出発したものと考えられる。 ――同じく侘びた趣向であっても、織部の好みの侘びは、さらに明るく多様多彩である。――織部の茶は、小堀遠州へ、片桐石州へとつづく大名茶であったといわれているが、大名茶というものは、単に物量的に豪華であり、贅沢であるが建前ではない、むしろ精神的な豪放さであり、たくましさであり、気品と気位の高さにあった」
 管理人の感覚からいえば、利休の美とは無駄なものを切り落とし、極限にまで磨き抜かれた美であるのに対し、織部の美とは、まさに美のエネルギーを奔放に爆発させた美ではないだろうか。二人の美への追及は、まさに対極にあったといっていいだろう。
 現代の茶道といえば三千家に代表されるような利休の嗜好を至上とする向きがどうしてもある故に、対極に位置する織部の存在はどうしても異端となってしまうのだ。また、徳川家に反旗を翻したという形で最後を遂げてしまったことにも多分な原因はあるだろう。

 まるで対極にある利休と織部。しかし一途な美への追求心という意味では、二人はやはり師弟だった。
 ある時利休の屋敷で朝顔が満開に咲いた。これを聞いた秀吉が訪問してみると、どこにも朝顔が咲いていない。不審に思いながら招かれた茶室の花差しに一輪の朝顔が飾られていた。実は咲いていた朝顔を利休は全て切り落とし、その美を一輪の朝顔に収斂させたという利休の美への嗜好を表した有名な逸話だが、秀吉はあくまでも満開の朝顔が見たかった訳だ。にも関わらず、時の権力者に媚を売ろうとせずに自身の美を貫き通す頑固なまでな一途さこそ、利休と織部の最も重要な共通点だろう。
 利休の自刃については様々な説がある。だが、このような権力者に媚を売らない態度がその一因になった可能性はあるだろう。
 利休が秀吉に謹慎を命じられて京都を去る際、秀吉を憚り誰も利休を見送ろうとする者の無き中、唯一細川忠興と古田織部だけが淀の渡しに利休を見送った。
 後年、方広寺鐘銘事件が起きた際、その銘文を選定した責任により謹慎中の南禅寺の僧清韓を、時の権力者たる徳川家を憚らずに茶に招き、これを歓待した。
 直接美への追求心を表す逸話ではないが、例え権力者の反感を買おうと信念を貫き通そうとする織部の姿が見て取れるように思う。なお、織部の最後について『古田織部の茶道』の著者桑田忠親さんは権力者に媚びぬ姿を危険視されたのが自刃に追い込まれた遠因ではないかと記している。

 はからずして同じような最後を遂げた利休と織部。しかし、現在その評価には差があり過ぎるようだ。
 古田織部という男も偉大なる大茶人の一人といってよいのではないだろうか。

 関連作品:京都にての歴史物語「歓待の茶

(2009/06/25)

<古田織部縁の地>

 ・塔頭の三玄院に古田織部の墓がある。
  大徳寺ホームページ⇒http://www.rinnou.net/cont_03/07daitoku/index.html

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