三十三間堂

「三十三間堂」

 

 昨今はなにやら仏像ブームなのだとか・・・
 仏像といえば京都でしょう!
 そんな京都でも仏像マニア垂涎(?)の場所といえば、質、量共に考えても三十三間堂を置いて他に無いでしょう!まさに仏像パラダイス!
 見所はなんといっても千体(現在、正確には1001体)にも及ぶ千手観音立像。階段状に整然と並ぶその光景は、まさに黄金のピックウェーブ!その衝撃まさにディープインパクト!その波に飲み込まれたなら、go to 極楽!ああ、ありがたや。
 更に見逃せないのが、千手観音立像の前に配置された二十八部衆像の迫力の姿!それにプラスしての躍動する風神雷神像!
 数の原理を強く意識したこの三十三間堂は、とにかくダイレクトに視覚に訴えかけてくるので見栄えがいい。例え仏像に興味のない人でも、これだけの圧倒的な光景を前にすれば少なからずの高揚を覚えるのではないだろうか。そういう意味では失敗のない観光名所の一つとして挙げることができる。現に管理人はすでになんども訪れているが、未だに飽きがこない。機会があれば何度でもこの仏像達に会いにきたくなるような思いにさせてくれる。

 三十三間堂の正式名称は蓮華王院という。三十三間堂の通称は、お堂の柱間の数が33あるのに因むといわれる。
 元は後白河上皇の政庁を兼ねた法住寺殿の仏堂として建てられたもので、落慶したのは長寛2年(1164)。蓮華王院建設にあたっては平治の乱以来台頭してきた平清盛が資材の多くを所領備前国から取り寄せるなどの、大きな役割を果した。
 その後、木曽義仲による法住寺殿焼き討ちでは焼失を免れたが、建長元年(1249)に起こった大火により焼失。その際、千体仏の内156体と二十八部衆、風神雷神像は運び出されたが、中尊をはじめとするその他の仏像に関しては建物と共に焼失してしまった。この為、建長3年(1251)に後嵯峨上皇の命により湛慶を大仏師として復興に乗り出し、文永3年(1266)に至りようやく再建がなった。
 この再建された建物が時代時代に大修理を重ね現在に引き継がれており、また千体仏の殆ども再建時に作られたものが今も残る。
 本堂、中尊の千手観音坐像、二十八部衆像、風神雷神像が国宝に指定されており、千手観音立像は重要文化財に指定されている。

 まさに宝の宝庫、三十三間堂。これを傷つけたとあっては罰が当たります。いや、それよりも現代では逮捕されます。 
が、こともあろうに、このお堂を傷付けるのも顧みずに弓矢を放ち続けた大馬鹿者共(?)がいた!
 仏像を拝観し終わって出口に向かい外陣を歩いていると、頭上に多くの掲額を見ることができる。これはなにかというと、お堂の西外側の広縁(写真参考)で行われた「通し矢」の度ごとに記録として奉納したものだ。通し矢とは、南端に座って北端の的までおよそ120メートルの距離を強弓で強射するもの。つまり右側に壁、頭上の庇に矢を当てずに北端まで矢を通すことができるかどうかという競技だ。中でも有名なのが、24時間ぶっ通しで何本通るかという「大矢数(おおやかず)」という競技だ。
 始まりは天正年間(1573~1593)のことで、流行したのは江戸時代に入ってからだったようだ。その中でも尾張藩と紀州藩の功名争いが激化し、寛文9年(1669)には尾張藩の星野勘左衛門という者が、総矢数10542本を射て、8000本を通すという記録を打ち立てた。まさに前人未到の記録であったが、貞享3年(1686)に紀州藩の和佐大八郎という者が挑戦して、総矢数13053本を射て、8133本を通すという大記録を打ち立てた。これは平均すると1分間に9本を射、1時間で544本。かつ6割の成功率という驚愕の数値だ。
 現在の弓道場では一般的に遠的でも60メートルというから、距離にしてその倍。かつ24時間のぶっ通し。これぞまさに心技体の真髄。武士の姿。
 結局、その後和佐大八郎の記録を破るものは無く、明治28年(1895)を最後に中絶した。まぁ、現在やったら即刻逮捕ですので我こそは!と思っても止めましょう。
 なお、この通し矢の面影は現在「大的大会」として復興され、晴れ着に襷がけをした新成人女性による競射が今や京都の1月の風物詩となっている。

 さて、最後に管理人の思い付きを一つ。
 千手観音は「千手千眼」といわれ、千本の掌にはそれぞれ眼が刻まれている。手は多くの者を救う手。そして多くの者を救うには、それを知る多くの眼が必要ということだろう。
 これをちょっと現代社会に置き換えてみた。治安の悪化が囁かれる昨今。犯罪から市民を守る為には、千手観音の手というべき警察官はもとより、犯罪を察知する多くの眼が必要ということになるだろう。その眼とは監視カメラであったり、盗聴であったりするのだろうか。
 管理人はここでなにも警察の捜査手法を批判するつもりはない。ただ漠然と、安全の代価を考えたまでだ。
 救済してもらう為には、知ってもらわなければならない道理。安全を守ってもらう為にも、知ってもらわなければならない道理。
 けれども警察官は人間だ。観音様ではない。そこに一抹の違和感を、管理人は感じたに過ぎない。
 極楽への道程は、なかなかに一筋縄にはいかないようだ。

 とまぁ、管理人の妄想はさておき、千体の千手観音立像の表情にはそれぞれ個性がある為、そこに会いたい人の面影を見出せるという言い伝えがある。
 あなたはどんな人と出会い、どんな想いを抱くのだろうか。

 関連作品:京都にての物語「千手千眼

(2009/08/23)

蓮華王院(三十三間堂)ホームページ⇒http://sanjusangendo.jp/

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