八坂神社

「八坂神社」

 

 京都市内の地図をぼーっと眺めていた時に、真っ直ぐに北から南へ伸びていた鴨川の流れが四条辺りを境に急激に西に向かうのを見ながら思ったことがある。
「まるで八坂神社が鴨川の流れが西に傾くのを留めているみたいだ」
 現在は詳細な地質調査により古代の鴨川も現在の流路とほぼ変わらなかったと証明されたようだが、以前は元々堀川辺りを流れていたのを、平安遷都に併せて現在の位置に移し変えたのではないかという説があった。その説を念頭に置きながら京都市内の地図を眺めていたらそんな風に思ったのだ。
 京都の地は四神相応の地といわれる。その中で東の青龍に見立てられたのが鴨川というが、実は八坂神社も青龍ではないかという話もある。それを裏付けるかのように、というよりもこれが話の元なのか、八坂神社には一つの伝説がある。それが本殿下にあるという龍穴の存在だ。それは元々底無しの大池であったという。そしてそこには水の神たる蛇が住まうといわれたそうな。。。ちなみに「京都五社巡り」というものでも、八坂神社には青龍が割り当てられている。
 最近はパワースポットなる言葉が流行りのようで、それならば千年王城京都の支えたる青龍の住まう八坂神社こそ、一級のパワースポットといえるのではないだろうか!!
 まっ、鈍感な管理人はなにも感じたことはないが・・・

 ところで、現在八坂神社の主祭神といえば素戔嗚尊というのは周知の事実だろう。ところがだ、明治以前は牛頭天王が主祭神であったようだ。更に八坂神社の創始を辿っていくと話はだいぶ複雑になっていく。
 社伝によれば、平安京以前から現在の八坂神社周辺は八坂造と呼ばれる渡来系の一族が住んでおり、広大な寺域を持つ観慶寺、別名祗園寺が営まれていたが、その寺域にあった「天神堂」というものが八坂神社の前進に当たるらしく、後に観慶寺の衰退に伴い独立して祗園社、もしくは感神院と呼ばれるようになったという。では「天神堂」に祀られていた神はどのような神かというと、天神・婆利女・八王子であったという。
 八坂神社由緒には諸説あるが、一説に斉明天皇2年(656)に高麗から来朝した八坂造(やさかのみやつこ)の祖が牛頭天王を祀ったのが始まりという。ということは観慶寺の本尊が牛頭天王だったのだろうか。牛頭天王はインドでは祇園精舎の守護神といわれるので、寺の別名が祗園寺というのも納得がいく。
 さて、問題はここからだ。社伝に従えば観慶寺が衰退した後に天神堂だけが残り、後に祗園社、もしくは感神院と呼ばれるようになったいう。この流れを単純に解釈してみると次のようにならないだろうか。つまり観慶寺が衰退し天神堂だけが残ったので、観慶寺の本尊であった牛頭天王が天下り(?)、元々の祭神であった天神・婆利女・八王子に成り代わって主祭神として居座った。それを裏付けるのが、天神堂から祗園社への名前の変化ではないだろうか。
 ではなぜ、母体である観慶寺が衰退したにも関わらず、天神堂だけが残ったのか。これは管理人の勝手な推測でしかないが、よくあるパターンとして寺の後ろ盾、つまり八坂一族の衰退がそのまま観慶寺の衰退に繋がり、天神堂だけがたまたま管理の引き受け手があったということではないだろうか。更に想像力を逞しくして考えれば、なぜ天神堂管理の引き受けてがあったかといえば、それこそ現在も本殿下に存在するという龍穴(池)への信仰が高まっていた為ではないだろうか。
 天神堂⇒祗園社(感神院)⇒八坂神社への変化の中で、祭神は以下のように変化している。
 天神堂⇒天神・婆利女・八王子
 祗園社(感神院)⇒牛頭天王・婆利女・八王子
 八坂神社⇒素戔嗚尊・櫛稲田姫命・八柱御子神
 元々日本では牛頭天王と素戔嗚尊は同一視されている為に当初は明確な区別はなかったのだが、明治政府による神仏判然令というものによって現在の呼称「八坂神社」となり、祭神も上記の通りになった。

 さて、八坂神社といえば忘れてならないのが日本三大祭の一つ祗園祭だろう。因みに祇園祭というと山鉾巡行が有名でその様子はニュースでも流れたりするから、山鉾巡行のみを祇園祭と考える人もいるかと思うが、実は祇園祭は7月1日の吉符入(きっぷいり)を皮切りに、17日の山鉾巡行を経て、31日の夏越祓(なつごしはらい)まで7月一杯をかけて行われるとても長いお祭なのだ。
 社伝ではその始まりを貞観11年(869)とし、疫病や天変地異の平定を祈願して矛六十六本を立て祗園社から神泉苑へ神輿を送ったことによるという。
 祇園祭を正式には祗園御霊会という。御霊とは霊魂のことだが、ここでは恨みを含んで亡くなった人の霊魂をいう。特に有名なのは御霊神社にも祀られている早良親王だろうか。その御霊の怒りを鎮めるために営むのが御霊会だ。つまり祗園祭とは御霊の怒りを鎮める為に行われている祭りなのだ。御霊の崇りこそ、疫病や天変地異を起こす原因と考えられていたからだ。
 ではなぜ、御霊を鎮める祭りに祗園社が担ぎ出されたのか。それは牛頭天王、及び素戔嗚尊こそが疫神だからであろう。一説には祇園祭開始の切っ掛けとなった疫病の原因は牛頭天王の崇りという。
 蘇民将来説話というものがある。牛頭天王や素戔嗚尊と同一視される武塔神という神が南海に旅をした際、武塔神はまず裕福な弟の将来に一夜の宿を願ったが弟の将来は断り、次に貧しい蘇民将来に一夜の宿を願ったところ、貧しいながらの精一杯のもてなしをしたという。これを喜んだ武塔神は蘇民将来に茅の輪を付けていれば疫病を避けられることを教え去り、後に武塔神に一夜の宿を貸さなかった弟の将来一族は疫病に滅んでしまったという。
 つまり祗園社の主際神こそ、疫病をコントロールし得る神として畏れられ、かつ敬われたのだ。故に祇園祭は神を喜ばすために盛大に営まなくてはならない!と考えたかどうかはさだかではないが、今日のように祭りは見事に豪華となった。さぞや素戔嗚尊も満足だろうか。
 ついでに、調子に乗ってここでも想像力を逞しくするならば、龍穴の存在も忘れてはならないのではないだろうか。龍穴は池であったという。そこに住まうのは、つまりは水の神だ。水は浄化を司る。その浄化作用を期待して御霊会に祗園社が担ぎ出されたとしてもおかしくはないだろう。また一説に龍穴は神泉苑に繋がっていたという。

 と、ここまで書いてみたが、簡単には書ききれないのが八坂神社の歴史の深さと習合の複雑さだ。
 また、境内のある多くの摂社・末社の数々についても書ききれない。中でも有名なのは上記した蘇民将来を祀る疫神社だろう。 西楼門を入ったすぐの所にある疫神社では祇園祭最終行事にあたる夏越祓が行われ「茅之輪守」(「蘇民将来子孫也」護符)というものが社前にて授与される。これは上記した蘇民将来説話により、蘇民将来の一族の証として茅の輪を付けていれば疫病を避けられるという逸話に倣い「蘇民将来子孫也」と書かれた紙を付けたものだ。・・・ふと、これを書きながら思った。蘇民将来の子孫でない者が「蘇民将来子孫也」と騙る。これは神を謀る行為にならないだろうか?そんなことして罰はあたらないのかな?という素朴な疑問。いや、別にまったく他意のない素朴な疑問。・・・そうか、だから境外摂社の素戔嗚尊の荒魂を祀るという冠者殿社は誓文払い(嘘の罪がチャラになる)のご利益があるのか。疫病を凌げたら実は蘇民将来子孫ではありませんでした!みたいな。・・・もしこんな戯言が本当だったら、恐るべきは神でも御霊でもなく、生きている人間ということか。。。
 その他にも美御前社なる末社がある。ここには宗像三女神の多岐理毘売命・多岐津比売命・市杵島比売命が祀られていて、その美貌にあやかり(?)美徳成就の祈願をする御社なんだとか。また社前には神水が湧き出していて「美容水」として重宝されているのだとか。まっ、今の時代女性ばかりではなく男性も美を求める方が多いようですので、気になった方は一度訪れてみるのも良いかもしれない。
 最後に。八坂神社で神水といえばやはり龍穴たる大池の水だろう。実はかつては希望すれば分与して頂けたらしいが、残念ながら今では分与は望めないらしい。これはあくまでも管理人の憶測でしかないが、京都盆地全体で起きている地下水の減少と無関係ではないのかもしれない。しかし、諦めることなかれ!境内大神宮の社前には「力水」(祗園神水)と呼ばれる湧き水があり、これは龍穴の大池と同じ水脈だという。
 さぁ、これで八坂神社のパワーもあなたのもの!!かもしれない。。。
 なお「力水」を飲む際は煮沸消毒をした方がよいとのことでご注意を。

 関連作品:京都にての物語「厄男落とし

(2010/03/14)

八坂神社ホームページ⇒http://web.kyoto-inet.or.jp/org/yasaka/

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