龍安寺

「龍安寺」

 

 【謎】とはなんと魅惑的な言葉だろう。この言葉に脚色された事象や物事を人々は解明しようと躍起になる。そういう意味では、ある程度の謎は謎のままにあるのが「夢のある話」ということになるかもしれない。
 京都にも多くの謎が残る。そもそも、平安京遷都自体謎だらけなのだから、 そりゃあ謎の宝庫という訳で。
 龍安寺にも有名な謎が一つ。それが方丈前の石庭だ。
 管理人が初めて龍安寺を訪れたのは中学か高校の修学旅行だったような気がするが、余りにも有名な石庭を目前にしてなんの感慨も湧かなかった記憶が。まぁ、興味の有無というのが最大の要因なんだろうが、とてもシンプルで、それでもって予想していたよりも余りにも狭かったので期待外れというかなんというか。謎の意味もわからぬままに龍安寺を後にしたように思う。

 謎を知る為には、まず龍安寺の歴史を知らなくてはいけない。
 龍安寺が建立される前、その土地は大徳寺家の山荘だった。その土地を宝徳2年(1450)、時の権力者である細川勝元が譲り受け、師と仰ぐ妙心寺第5世の義天玄承を迎えて建立された。応仁の乱にて焼失するが、勝元の実子である政元が特芳禅傑を招いて再建した。その後、寛政9年(1797)に食堂から出火し、方丈、開山堂、仏殿を失うが、西源院の方丈を移築し再建。現在に至っている。
 次に建立者である細川勝元と実子政元について少し。
 細川勝元は永享2年(1430年)室町6代将軍足利義教の下で幕府管領を務めた細川持之の嫡男として生まれる。持之の死去に伴い13歳で家督を継ぎ、16歳の時には管領職に就いた。以後3回にわけて20年以上も管領職を務めた、場合によれば将軍家さえも凌ぐ時の権力者だ。その勝元を最も有名にした戦が応仁の乱だ。西軍の総大将が山名宗全で、東軍の総大将が細川勝元だった。応仁の乱といえば11年もの間続き都を焼き野原と化した京都でいうところの「先の大戦」だ。その最中山名宗全は死去し、その後を追うように文明5年(1473年)に勝元は44歳で死去した。
 細川政元は文正元年(1466年)細川勝元の嫡男として生まれた。その後勝元の死去に伴い、8歳で家督を相続。明応2年(1493年)「明応の政変」により管領として権力を手中にすると「半将軍」とも呼ばれ細川氏本家である京兆家の全盛期を築いた。そんな権力者としての反面、個人的には生涯妻帯せずに信仰に走った。なんでも摩利支天、愛宕神、もしくはダキニ天を崇拝し、修験者のように野山を駆け巡ったという。その結果、呪力によって空を飛ぶことができたなどの超人伝説を生んだ。しかし、そんな超人も永正4年(1507)家臣の裏切りにあい42歳で暗殺されてしまった。
 勝元と政元。室町幕府の有力な権力者であった親子が造り上げた寺院こそ、この龍安寺ということになる。

 では、いよいよ石庭の謎に。
 石庭の謎といえば、大まかに2つ挙げられる。
 ①作庭者は誰か?
 ②庭が表現する意味とは?
 作庭者候補を羅列すると、細川勝元、細川政元、龍安寺開山の義天玄承、中興開山の特芳禅傑、相阿弥、般若坊鉄船、子建西堂、金森宗和、等々。果ては庭の石に刻まれた「小太郎 清二郎」という名が残ることから、この二人が作庭したのではないかとも。
 作庭意図についても、これもまた色々。最も有名なのが「虎の子渡し」という中国から伝わった説話を表わしているというもの。なんでも虎が3匹の子供を産むと1匹は残りの2匹を食べてしまう彪(ひょう)で、母虎は川を渡る際に彪が残りの2匹を食べないように苦心するというお話。
 その他にも吉数である7,5,3と配列しているとか、『心』という文字を表わしているとか、15個の石が角度を変えても14個しか見えず、満月を十五夜と呼ぶように15は完成を意味するから、永遠に完成しない庭を表現しているとか、最近では「二分岐構造」になっているとか。
 そりゃあもう、喧々諤々。答えは見えず。故に謎。
 今回管理人が参考にした「龍安寺石庭の謎~スペース・ガーデン~」の中で著者の明石散人さんは作庭者について次のように書いている。
 『――勝元と特芳。加えて言えば五百年の時間と寛政の火災。これらがすべて絡み合って作者とするのがいちばん良いかもしれない――』
 この本の中で明石散人さんは卓越した視野の広さで説を展開しているので興味がある方は一読の労をとるのもよいかもしれない。
 それはさておき、つまりは唯一無二の真実をあぶりだすには、500年という歳月は余りにも長すぎるということだ。 現在の龍安寺石庭の作者といえば、それは寛政の大火後に修復した職人が作者といえるだろう。一方の見方ではそれが唯一無二の答えとなるかもしれない。けれどもまた一方では、単純にそう言い切ることはできないだろう。 長い時間の中で多くの者が係わり合い残されてきたもの、それが現在の石庭に他ならない。それは庭が表現する意味も同じだ。
 謎は謎のまま。永遠に解けぬ謎こそ、石庭の真実なのかもしれない。
 しかしだ、謎の魅力という点に置いてはそれを解こうとしてナンボ。上記のような達観を気取る話は置いといて、ぜひとも独自の意味を石庭に見出して頂きたい。そして見出すことができたならば、それもまた一つの真実。

 龍安寺には石庭の他にも見所がある。細川勝元・政元のお墓に義天玄承のお墓。それと鏡容池に浮ぶ島の一つには大阪夏の陣で散った真田幸村のお墓がある。
 その鏡容池とその周辺は、四季折々の多彩な姿を見せてくれる。
 お腹が減ったなぁと思えば龍安寺塔頭の西源院。ここは湯豆腐を提供することで有名だ。
 後は、写真にて掲載した水戸黄門こと徳川光圀寄贈といわれる「吾唯足知」という言葉を元にデザインした蹲。しかし方丈裏手に置かれた龍安寺のパンフレットにも写真掲載されている蹲は複製で、本物は茶室蔵六庵の庭にあるそうだ。こちらは一般非公開なので通常は見ることができない。それを知らずに複製を本物と思いこんで喜んで写真を撮影した管理人は非常に哀れだ。そういわれれば、確かに時代を感じさせぬ真新しさ。。。
 ともあれ、龍安寺を訪れたなら、石庭共々楽しんで頂きたい。

 関連作品:京都にての物語「吾、唯足るを知る

(2010/05/28)

龍安寺ホームページ⇒http://www.ryoanji.jp/

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