「織田信忠」

 

 本能寺の変。それは余りにも有名な事件。
 天正10年(1582)6月2日未明。織田信長の宿舎である本能寺を明智光秀の軍勢が急襲した。これにより天下人織田信長は49年の生涯を閉じ時代は風雲急を告げ、中国大返しの上、山崎の合戦で明智光秀を討った羽柴秀吉は、清洲会議で信長の孫である三法師の後見人となることで信長の後継者として台頭していくことになる。
 さて、本能寺を襲撃した明智光秀。実は彼がターゲットとしたのは織田信長ばかりではなかった。光秀がターゲットとしたもう一人の人物。それこそが信長の嫡子であり、後に秀吉が擁立する三法師の実父である織田信忠だ。
 本能寺の変のその日、織田信忠は本能寺から北東へ約600メートル離れた妙覚寺に宿泊していた。本能寺襲撃の報を受けた信忠は信長救援の為に妙覚寺を出るが、途中京都所司代の村井貞勝親子と出会い、すでに本能寺が炎に包まれたことを知り防御施設の整った二条御所へと移った。この際、家臣より安土へ脱出して再起を計るよう進言があったが、信長公記によると信忠は次のように述べその進言を退けたという。
「か様の謀反によるものがし候はじ。雑兵の手にかかり候ては御難無念なり。ここにて腹を切るべし」
 要は「逃げるのは難しいだろうから、雑魚に首を取られるぐらいなら潔く腹を切ろう」ってな感じだろうか。この発言に対して、後世の評価は二分される。一つは武士としての潔さを称えるもの。そしてもう一方は、その潔さを浅はかさと捉え大将の器ではなかったとみるもの。
 天正7年(1579)徳川家康が信長に糾弾され、嫡子の松平信康を切腹させるという事件が起こる。信長の糾弾理由としては信康が武田家と内通した為と伝わるが、後世、これを信長が信康の才能を恐れ、除かん為に仕掛けたという説が広がり、それの対照として信忠が凡愚の将であった為との評価が広まった。

 織田信忠は弘治3年(1557)に信長の嫡男として生まれた。幼名は奇妙丸。17歳にして元服し、信長に従い各地を転戦していく。中でも武名を挙げたのは、長篠合戦の後に武田家の秋山信友が籠もる、日本三大山城の一つとされる岩村城を兵糧攻めの末に陥落させたことであった。これにより信忠は岐阜城と美濃・尾張の両国を与えられると共に織田家の家督を譲り受けた。その後も多くの戦いで信長に代わり総大将を務め、着実に戦績を挙げていく。
 そして信忠最大の戦功といえば、なんといっても武田攻めだろう。武田家といえば武田信玄に代表される戦国時代きっての大大名だ。信玄亡き後に長篠合戦で勝利したとはいえ、未だ強国であることには変らない。そんな武田家を信忠率いる先方隊は信長率いる本隊を待つずして壊滅させてしまったのだ。もちろん裏切りが続出した為に武田家が自滅したという見方もできるが、機を逃さずに一気に攻め立てた信忠の采配は見事であったといえるだろう。信長も梨地蒔の腰物を与え「天下の儀も御与奪」(信長公記)と天下を譲る意思を示し賞賛したという。
 こうした実績を見ていく限り、道なき道を己の才覚で切り開いてきた信長と比較してしまうと、確かにその道は整備された歩きやすいものであったかもしれないが、決して能無き凡将とは思えない。少なくとも信長は後継者として信忠を認めていた訳で、それは家臣団もまた同じような思いで信忠を見ていたことだろう。もちろん、明智光秀も――

 本能寺の変の数日前。信忠は徳川家康一行と共に安土を出発し京に着いた。その後も信忠は家康と共に堺を訪れる予定になっていたが、信長が毛利攻めに出陣することを知り、それならば堺見物などしている場合ではないと予定を変更して京に留まったという。

 本能寺炎上の後、ついに二条御所は明智勢に包囲された。二条御所は防御施設は充実していたものの、常には正親町天皇の第五皇子である誠仁親王が住まう屋敷として使用されていた為に甲冑や武器が不足していた。それでも信忠勢は大手門を開いて斬り込み頑強なる抵抗を示したという。これに対し明智勢の士気は上がらなかったようで攻めあぐねていたが、弓・鉄砲を隣接する館の屋根から撃ち込むことでようやく戦いを決した。
 信忠は自らの遺骸を館の縁の下に隠すよう言い残し切腹して果てたという。享年26歳。

 歴史に「もし」はない。けれども考えてみたくなるのが人の心情というものだろう。
 もし信忠が京を脱出していたならば・・・これまでの実績を見る限り信忠の下には多くの織田家家臣が参集し、中国大返しをしてきた秀吉もその傘下に組み込まれただろう。信長を失ったという損失は大きいが、歴史上に見る織田家の瓦解という事態は避けられたのではないだろうか。そして信忠は信長の志を継いで天下布武の道を邁進したのではないだろうか。
 まっ、秀吉や家康がいつまでも信忠の下で甘んじているとも思えず、それに対して信忠が2人を制御し続ける将としての器があったかどうかまでは、少々難しくは感じるが。
 それでも、稀代の英雄織田信長の後継者として立派に振舞っていた姿に、凡愚の肩書きは似合わない。

 関連作品:京都にての歴史物語「凡愚なる将

(2010/07/06)

<織田信忠縁の地>

 ・織田信忠最後の地、二条御所跡。
  京都市中京区両替町通

 ・織田信忠が父の信長と共に祀られている。
  建勲神社

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