源光庵

「源光庵」

 

 管理人が源光庵のことを知ったのはここ数年のこと。
 けれど、源光庵にある『悟りの窓』についてはもう少し遡ることができる。それは週刊少年ジャンプで連載されていた某漫画の中で物語の一場面として描かれていたから。その頃は大して京都に興味はなかった筈だが、その存在は強く印象付けられ、後に『悟りの窓』が源光庵にあるということを知るに至り、ああ、あの漫画のシーンは源光庵だったのかとようやく点と点が線で結ばれた。
 世間的にはJR東海の有名なキャッチフレーズ「そうだ、京都に行こう」のポスターにも『悟りの窓』は採用されているので、そちらでご存知の方もいるだろう。

 源光庵は北区鷹峯にある。市街地からは少々離れており、辿り着くにはこれまた少々時間を要する。
 正式名称は鷹峰山寶樹林源光庵。創建は貞和2年(1346)臨済宗大本山大徳寺2代徹翁国師による。後の元禄7年(1694)加賀大乗寺27代卍山道白禅師が住持し、これより臨済宗から曹洞宗に改めた。
 観光で訪れた際の見所を挙げれば3つ。
 1つは上記で触れた『悟りの窓』と、対にとなる『迷いの窓』。
 2つには血天井。
 3つには北山を借景とした本堂裏の枯山水庭園だろうか。
 枯山水庭園については勉強不足もあり、いまいち良し悪しを語ることはできない。ただ単純に縁側に座って眺める景色は美しく感じられ、紅葉の頃には特に多くの観光客を集める。また『悟りの窓』と『迷いの窓』からの景色はこの枯山水庭園の一部となるので、季節によって趣の違う姿を見せてくれるだろう。
 次に、本堂には血天井と呼ばれる血痕の残る板が天井板に使われている部分がある。これは、時は慶長5年(1600)。上杉征伐の為会津に向かった徳川家康の留守を狙い石田三成が挙兵。最初の攻撃目標となったのだ伏見城だった。伏見城には家康の家臣鳥居元忠が篭もっていたが、多勢に無勢、奮戦の後に自刃して果てた。血天井の板はこの際の伏見城の遺構で、板に残る血痕は鳥居元忠一党のものと伝わり、供養するという意味でこの源光庵の他にも、京都市内では大原の宝泉院、西賀茂の正伝寺、東山の養源院にそれぞれ移され、血天井の名で呼ばれている。正直、見て余り気分のいいものではないが、あくまでも供養。

 そしてメインはやはり『悟りの窓』と『迷いの窓』。
 パンフレットに曰く。
 『悟りの窓は円型に「禅と円通」の心を表わし、円は大宇宙を表現する』
 『迷いの窓は角型に「人間の生涯」を象徴し、生老病死の四苦八苦を表わしている』
 本堂の右手奥。 『迷いの窓』が右手に、『悟りの窓』が左手に柱を挟んで並んでいるのだが、人気があるのはどうしても『悟りの窓』のようだ。『迷いの窓』はいまいち人気がない。今更迷いがどういうものかを示唆されなくても充分に味わいつくしてきているよ!といったところだろうか。
 ではなぜ『悟りの窓』に人気が集まるのか。それは単純に人が謎を解くという行為が大好きだからだろう。悟りと謎解きとは根本的に違うものだが、まぁ探求という意味でざっくりといってしまえば似ていないこともないだろう。だから人々はこぞって『悟りの窓』の前に立つ。もしくは座る。
 さて、なにが見えてくるだろうか?もしくは、なにを感じるだろうか?
 <辞書で調べる「悟り」>
 ・三省堂国語辞典⇒「迷いを去って真理を知る」
 ・大辞泉⇒「1:物事の真の意味を知ること。理解。また、感づくこと。察知。2:仏語。迷妄を払い去って生死を超えた永遠の真理を会得すること」

 情報が溢れ、スピーディーさが求められる現代、その感心は常に外側に向き、いつしか己を見失う時が来るかもしれない。見失ったら、また見つけるしかない。では、どう見つけるか?それには先人の知恵を頼るのも一つの手だ。
 どんなに時代が変わろうとも、人間が人間であることに変わりはなく、常に人間は人間という存在の意義、己の存在の意義を探求し続けてきた。その一つの指標が「悟り」という境地であろう。
 「悟り」への道は単純ではないかもしれないが、源光庵の『悟りの窓』『迷いの窓』はもしかしたら己を再発見する手助けとなってくれるかもしれない。

 関連作品:京都にての物語「悟りと迷いの窓
 関連記事:京都にての管理人「2009紅葉見物

(2010/07/15)

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