北野天満宮

「北野天満宮」

 

 延喜3年(903)、菅原道真は左遷先である大宰府でその生涯を閉じた。享年59歳。
 道真が京を去る時に詠んだといわれる、
「東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」
 は余りにも有名。さぞや恨み深くその最後を迎えたことでしょう・・・
 さぁ、道真よ、怨霊となり復讐の旅路へ!とは、すぐにはいかないんだなぁこれが。
 最初に道真の崇りが噂されたのは道真を大宰府に左遷させた張本人といわれる政敵藤原時平が39歳の若さで病死した頃だと思われる。延喜9年(909)というから、道真の逝去より6年後の事。年表上で見るとあっという間かもしれないが、6年といったら結構長いような気がしないだろうか?言ってみれば小学校の6年間はそんなに短かっただろうかと思い返してみる・・・昔過ぎて却ってわからんか。。。とにかくも、その6年もの間道真の怨霊は大人しくしていた訳だ。雷神菅原道真を流布させた清涼殿落雷事件にしても、起こったのは道真の死後27年後の延長8年(930)年の事だ。なんと気長な復讐劇だろう。もちろん、その間に時平や醍醐天皇の関係者が逝去したりもしているが、現代人の感覚からすれば点と点を結ぶスパンを考えると、道真の怨霊の仕業とする合理性はないように思える。得てして怨霊とは、後世に創造されるものだ。
 しかしながら、これはあくまでも現代的なもの見方、考え方であって、怨霊の存在が信じられていた時代においては、間違いなく怨霊道真は人々の心の中に存在していたのだろう。

 北野天満宮の創始は更に年を経て天慶5年(942)のこと。まず右京七条に住む多治比文子という女性に「北野の右近馬場(平安京大内裏の北)に我を祀れ」との道真の神宣が下った。この時は動きがなかったようだが、更にそれから5年後、今度は近江国比良宮の禰宜の子にも神宣があったのを機に北野の地に祠を設けたのが起源だという。
 その後、生前の道真と親しかったという時平の弟である藤原忠平の尽力により社殿は整備されていき、天徳3年(959)右大臣藤原師輔が神殿などを造営し社観を整え、永延元年(987)に初めて勅祭が執り行われ「北野天満宮天神」の神号を得た。
 長い歴史の中で幾度かの災害に見舞われるがその都度再建され、現在の社殿は慶長12年(1607)豊臣秀頼が片桐且元を奉行にし再建したもので、社殿は国宝、通称三光門と呼ばれる中門、東門はそれぞれ重要文化財に指定されている。

 さて、今や学問の神様として余りにも有名な菅原道真公。そして北野天満宮。
 しかし上記したように、そもそも道真が神として祀られたのは怨霊であったからで、北野天満宮の本質は鎮めの社ということでよいだろう。
 ところで、天満宮といえば境内には欠かさず横たわる牛をモチーフにした臥牛像がある。これは道真の誕生年が丑歳に当り、また道真と牛にまつわる話が多く伝えられ、すなわち牛は天神(道真)の神使(祭神の使い)となっている為で、中でも大宰府で道真が没した後、その遺骸を運ぶ途中、車を引く牛が座り込んで動かなくなった為に、やむなくその付近の安楽寺に埋葬した故事に因むという。北野天満宮では特に境内西南にある乾大神の石造の臥牛像などは入学試験の合格を祈る信仰を集めているようだ。
 それにしても、なぜあくまでも横たわった牛の像に拘ったのだろう。――ここからはいつもながらの管理人の暴走。
 天満宮が怨霊道真を鎮める為の社であるということと、この横たわる牛の姿を結び付けてみる。横たわった牛はその場から動くことはない――要は、怨霊道真に「ここから動くなよ」と言っているのではないだろうか。まぁ、あくまでも祀っているので「動かないで下さいね」といった感じだろうか。つまり臥牛像とは道真の使いでもなんでもなく、怨霊道真を恐れる人々がこれ以上暴れないようにと願い道真を拘束する為の呪いなのではないだろうか。それこそ『鎮め』の願いだったのではないだろうか。もちろん根拠はない。根拠があれば暴走などと自虐したりしないで済むのだが・・・
 暴走ついでにもう少し話を展開したい。北野天満宮には七不思議というものがあるようだ。その中の一つに「唯一の立牛」というものがある。実は拝殿欄間の彫刻に境内で唯一立牛の姿が刻まれているのだ。ここで上記の暴論と結び付けるならば、これはつまり怨霊道真の解放を意味するのではないだろうか?では、誰が道真の解放を意図したのだろうか?単純に、この社殿は誰が築いたのか?現在の社殿を築かせたのは上記したように片桐且元を奉行に立てた豊臣秀頼だ。
 関ヶ原合戦以降、秀頼に家康の孫娘千姫が嫁入りし縁戚関係を結んだとはいえ、豊臣家は微妙な立場におかれていた。豊臣家にとって家康はこの上もない目の上のたんこぶだった。このたんこぶを除きたい。除きたいが、その手段がない。それならば・・・当時敵を呪詛するというのは突飛な考えではなかっただろう。そこで豊臣家はとんだ大物を引っ張りだしてきた。それが大怨霊道真ではなかっただろうか。後に方広寺の鐘銘事件が起こるが、実は本当に豊臣家は家康の呪詛をしたのではないだろうか。さぁ、立ち上がれ道真公よ!!ってな感じで。
 はい、なんの根拠もありません。三流小説のネタにもならんか。

 今回はどこまでも管理人暴走中。
 上記に掲載している写真。これは通称三光門こと中門なのだが、これを見ながらどんな内容を書こうかなぁと考えたら、一つ気付いたことがある。でもって、北野天満宮のホームページで七不思議の項目を見ていたら三光門についての不思議も書かれていた。一部を引用すると、
「御本殿前の中門は、日・月・星の彫刻があるために三光門と呼ばれるが、一説にこの彫刻は、日と月と三日月はあるが星はないといわれる――」
 とあった。
 星ならあるだろう。上空に突き出た屋根の一点を頂点にし、左右の屋根の庇の二点、それと門を支える左右の柱の一番下の二点。この五点を繋げば、ほーら見事な五芒星。

三光門の星

 ん?実際に線を繋いで見たら結構いびつだな。まっ、いいか。
 更に気付いたのは、門の左手に掲げられている提灯に描かれた北野天満宮の梅の紋。考えてみればこれも五芒星になりえる。
 日本で五芒星といえば、安倍晴明が用いた桔梗紋が有名だ。また桔梗紋はセーマンとも呼ばれ、魔除けとしても知られる。
 ということはだ、梅の紋自体も怨霊道真を封じる呪縛の一つなのかもしれない。 そして三光門。これもまた道真の脱出を防ぐ為に施された結界の一つでないだろうか。一体誰だ、こんな素敵な結界を施したのは!?・・・って、これも社殿と同じように豊臣秀頼か。・・・あっ、立牛の暴走論と凄い矛盾。菅原道真を以てしても徳川家康が呪詛に掛からなかった訳だ。。。
 まぁ、思いつきの暴走とは得てしてこのような結果を招く。なんかアホなこと書いているなぁ、ぐらいに受け止めて頂ければ幸いである。
 信じるか、信じないかは、あなた次第!って、どっかで聞いた台詞だな。。。

 最後ぐらいはまともなことを書こう。
 菅原道真の誕生、及び逝去した日にちが共に25日と伝わるのに因み、毎月25日は「天神さん」と呼ばれる縁日が開かれ、境内には多くの露店が並び、これまた多くの参拝客で賑わう。普段の北野天満宮で学問成就を願うのもいいが、25日に訪れ尽きぬ天神信仰のパワーを感じるのも、また一つの楽しみといえるだろう。

 関連作品:京都にての物語「学問の神様へ

(2010/09/21)

北野天満宮ホームページ⇒http://www.kitanotenmangu.or.jp/

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