晴明神社

「晴明神社」

 

 堀川今出川の交差点の手前、堀川通に停車した観光バスから多くの人が一の鳥居の中に吸い込まれていく。掲げられた扁額に浮かび上がるのは黄金の五芒星。見通す先に鎮座するのは、安倍晴明を祀る晴明神社。
 一の鳥居を潜ると、左手に旧一条戻り橋の欄干の親柱を移築しミニチュアとして再現した一条戻り橋と、その傍らには晴明が使役し、一条戻り橋の下に隠したと伝わる式神の石像が置かれている。
 葭屋町通を渡りもう一つの鳥居を潜ると、左手には絵馬舎と授受所、右手には晴明井と手水舎。先に進み本殿の左手には安倍晴明坐像があって、右手には厄除桃が置かれている。
 本殿の右手奥には末社の斎稲荷社が鎮座している。

 晴明神社のご由緒によれば、創建は1007年(寛弘4)とのことで、元々この地は安倍晴明の屋敷跡であったという。
 ところが、この地は平安京外にあたり殿上人であった安倍晴明が邸宅を構える場所としては適当ではなく、また『大鏡』や『今昔物語』に記載されている晴明宅は現在の西洞院通と上長者町通の交差する辺りだったと考えられている。ということは晴明神社の地は屋敷跡ではなかったのかというと、個人的には言い切れないのではないのかとも思う。なぜなら85歳の生涯をまっとうした晴明が一所にずっと住んでいたのかという疑問。また本宅が『大鏡』や『今昔物語』が示唆している場所にあったとしても、別宅があってもおかしくはないのではないだろうかという可能性。そういう意味では、やはりなんらかの晴明縁の地であった可能性は残るのではないだろうか。
 一時は広大な境内を誇ったという晴明神社だが、時代の流れに翻弄され次第に境内を縮小し、更に明治期の廃仏毀釈では官幣社どころか村社にも指定されずに廃社間近にまで追い込まれたという。そこでとった苦肉の策が、晴明を「稲荷大明神」とすることでなんとか廃社を免れたという。これぞ晴明の母とも伝わる信太狐の恩恵か。現在末社として鎮座している斎稲荷社が、この時の名残だという。
 そして長き苦難の時代を乗り越え、晴明神社は復活を果す。一時期、陰陽師が各メディアに多く取り上げられたこともあり、今や多くの観光客が集う観光スポットの一つにまでなった。

 観光スポットとして注目を集める晴明神社。今や境内は多くの人を迎えるに適した整備された景観を手にしている。が・・・あまりにも整然とし過ぎていて味気ないと思ってしまうのは管理人だけだろうか。
 初めて管理人が訪れた晴明神社は、写真が残っておらず微かな記憶に頼るしかないのだが、境内はもっと狭くて樹木の緑深く雑然としていて、一種の隠された場所、オカルティックと陰陽道を一括りにしてしまうのは大いなる語弊だろうが、オカルトというのがそもそも「秘された」という意味を持つ一部分のみをもって関連付けるならば、神秘なる陰陽道を駆使する安倍晴明を祀る神社としての管理人の如き俗人が抱くイメージと実際の雰囲気はかなり近い位置で一致していたように思える。簡単にいえば、怪しげな雰囲気。あのぞくぞくと好奇心を掻き立てるような雰囲気を知るだけに、もちろんこれは個人的な嗜好に過ぎないのだが・・・なんか詰まらなくなったなぁ、と。
 客を迎えるのに家を掃除して綺麗にするのは迎える側の心情。客はその心情を知ってか知らずか、己のイメージでモノを語る。この隔たりは埋めがたく。。。
 それはさておき。

 師である賀茂保憲より天文道を受け継いだ安倍晴明がきっと見上げていただろう星空。今、我々が見上げる星空。地上の光量の加減により見え方は異なるだろうが、基本的な輝きは千年の昔と変わらないだろう。
 変わらぬ星々。
 地上に掲げる星、晴明神社もご由緒に従えば千年。多くの苦難を乗り越え、今も京都の地に残る。
 星々の輝きが失われないように、晴明神社もまた、今後もこの地にあって安部晴明の威徳を伝えていくのだろう。

 関連作品:京都にての物語「式神
        京都にての歴史物語「忠実なる人」 
 関連記事:京都にての人々「 安倍晴明

(2011/01/26)

晴明神社ホームページ⇒http://www.seimeijinja.jp/

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