詩仙堂

「詩仙堂」

 

 かつて中学、高校の頃、修学旅行で行き先を決める際に検討された詩仙堂という名称。それはとても有名であるという印象と、それに見合った広大な敷地を有するだろうという思い込みによる先入観。その先入観は実際に訪れる近年まで続いていた訳だが・・・実は毎年のようにその表門前を通っていたのだが素通りして気付いていなかった。詩仙堂に行くぞ!と目的地にして訪れて、初めて「おお、ここだったのか!」と。わが身の注意力のなさと、予想外の質素で小さな表門に驚きを覚えた。
 敷地に入ると、そこは先入観とは大きくかけ離れた、とても質素な佇まい。有名な庭園も広大なものではなく、手入れの行き届いた美しき箱庭。とても大勢の観光客が訪れるような、というか、受け入れられるような所とは思えなかった。それこそ観光のピーク時にはさぞかし人で溢れるのだろうと想像される。
 それにしても、今にして思えばどうして詩仙堂という名が学生の頃の自分に、どうしてあれだけ飛躍した先入観を与えたのだろうか。結果から言ってしまえば、つまりは参考にしたガイドブックなりで大きく取り扱われ、かつ有名な観光地という文言でもあったからなのだろう。
 それではなぜ、詩仙堂は観光地として有名なのだろうか?そしてこの質素な、決して広くない敷地にどんな魅力が詰まっているというのだろうか?

 そもそも詩仙堂とはなんなのだろう。
 実は、現在の詩仙堂はお寺である。曹洞宗大本山永平寺の末寺で、詩仙堂丈山寺という。本尊は馬郎婦観音。
 けれど、そもそもは寛永18年(1641)に石川丈山という人物の住まいとして建てられたのが始まりで、以後敷地は整備され、幸いに災害を逃れ、現在も当時の面影を強く残しているという。
 では、詩仙堂の見どころはどこだろうか。
 まず一番に挙げられるのは、庭園の美しさだろう。ビジュアル的な刺激こそが、単純に強く人間の関心を惹きつける。隅々まで整備された庭園には多くの花々が植えられ、季節毎に色とりどりの花をつける。特に春のサツキと、秋の紅葉は多くの人々を惹きつけて止まないようだ。
 第二に挙がるのは『詩仙の間』だろう。通称詩仙堂、しかしそのそもこの建物の正式名称は凹凸カ(穴編に果)/(おうとつか)という。それがなぜ詩仙堂と通称されるかといえば『詩仙の間』こそが凹凸カを代表する部屋だからだ。『詩仙の間』を有名とする由来、それは中国歴代36人の詩人を、三十六歌仙に倣って三十六詩仙とし部屋の四方に掲げた肖像画の存在だ。詩人と詩の選定は林羅山に意見を求めつつ丈山自身が行い、肖像画は狩野探幽が描いた。
 第三に挙げるとしたら、僧都の響きだろう。つまりは『ししおどし』だ。閑寂を楽しみつつ庭園を眺める間に、響く甲高き音。そこに人は風情とも風流ともいえそうな美意識を覚えるのだろう。
 その他にも、丈山が見立てたという『凹凸カ十境』があり、それらを順次巡るのも楽しみの一つかもしれない。

 以上、見どころを挙げてみたが、より深く詩仙堂を味わう為には、この詩仙堂を作り上げた石川丈山という人物は知らなければ始まらない。
 石川丈山は天正11年(1583)に三河国に生まれた。16歳で徳川家康に近侍し、33歳の時、大阪夏の陣を迎えた。日頃から武芸に励んでいた丈山は、功名を挙げるのはこの時と勇躍し敵将首を取る手柄を挙げたが、軍令にて禁止されていた先登(一番乗り)の上の功名であったが故に、却って蟄居を命じられた丈山は髪を切り役を辞して妙心寺に入ってしまった。
 武芸だけではなく、学問、特に詩に秀でた才能を見せる丈山は、京都に出ると藤原惺窩に朱子学を学び、惺窩をして「この人必ず詩歌の宗となるであろう」と言わしめたという。
 徳川家を辞して3年後、一度紀州浅野家に仕官するが、京都での自適な生活への恋しさ故か、数か月で浅野家を辞して京都に戻ってしまう。しかし、そんな丈山にも老母がおり、孝行を尽くす為にと更に5年後、芸州に転封となっていた浅野家に再仕官する。
 再仕官からおよそ12年後、老母を看取り54歳になっていた丈山は浅野家を辞して京都に帰り、それから5年後に凹凸カに移り住んで、この世を去る寛文12年(1672)までのおよそ30余年、幾度かの仕官の話や、後水尾天皇からの誘いを辞退し、清貧ながらも自適な日々を送った。
 己が望むまま、己が思うがまま、貫き通した90年に及ぶ人生だった。戒名は『至楽院』。『詩仙の間』の隣に読書室である『至楽巣』が今でもあるが、文人として楽しみ至る=楽しみ尽くした人生といえるだろう。

 至楽の場所――
 詩仙堂こと凹凸カは、石川丈山という時代を代表する文化人が思想と嗜好を詰め込んで形成した小宇宙ではないだろうか。
 小宇宙=精神的空間であるが故に、詩仙堂を楽しむためには若干の想像力が必要となる。石川丈山が敷地内に見立てた『凹凸カ十境』。例えば蒙昧を洗い去る滝という意の『洗蒙瀑(せんもうばく)』。漢字の表記からするとどれだけ大きな滝かと想像してしまうが、実物はとても滝と呼べるような代物ではない。まるでジオラマのような水がチョロチョロ流れる岩に過ぎない。しかし、忘れてはいけないのが、これが見立てであるということだ。自分の目にどんなに貧相な水の流れる岩と見えても、それは蒙昧を洗い去る瀑と感じる=見立てなければ、丈山が楽しんでいた世界は見えてこない。
 ただ一方で、必ずしも共鳴する必要はないとも思う。時代も異なる上、個々の価値観、感受性も違う。人はそれぞれ小宇宙を秘めており、必ずしもその構成が優劣を決するものではない。
 ここにはただ、石川丈山という人物が作り上げた、普遍的であるという意味で模範的小宇宙がある。そして――
 あなたは詩仙堂を訪れた。ここで何を感じ取るかはあなた次第。そんな姿勢で向かい合うのが、詩仙堂を楽しめる一番のポイントになるのかもしれない。

 人間、人生は楽しみたいものだ。
 だからこそ、人々は詩仙堂に惹かれて止まないのかもしれない。

 関連作品:京都にての物語「自由の謳歌

(2011/11/13)

詩仙堂ホームページ⇒http://www.kyoto-shisendo.com/

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