「楠木正儀」

 

 切っ掛けは確か、そろそろ南北朝の頃もカバーしないといけないなぁ、なんて怠惰からの脱出を一歩だけ踏み出した時に、たまたま手にした本に記載されていた内容。
 ――北朝に降った楠木正儀。
 なんだって!楠木の人間で北朝に降った人間がいたのか!?しかも、再び南朝に帰参してるし、なんて不節操な奴が楠木一族にいたもんだ。一体、誰だこいつは!と興味を持ったのが最初。
 乏しい鎌倉末期から南北朝へかけての知識。その中で楠木といえば、忠義者の鑑、楠木正成を置いて他にはいない。迫りくる幕府軍を赤坂・千早の両城で僅かな手勢で翻弄し、幕府軍の衰退させる一翼を担ったこの時代の大英雄。その存在は漫画日本の歴史にも描かれ、小学時代から知る有名人。また、その息子にあたる楠木正行も、詳細を知っている訳ではなかったが、正成に劣らず南朝に忠節を尽くし華々しく散った英雄。
 つまり楠木家は南朝に忠義を尽くした一族という思い込みが強かったのだが・・・しかし、考えてみれば、正行の後に楠木一族がどうなったかなんて今まで考えもしなかった訳で、そういう意味ではただの無知が招いた驚きだった訳で。
 では知ろう、楠木正儀が何者かを。

 楠木正儀は元徳二年(1330)、正成の三男として生まれた。幼名は虎夜叉丸。
 7歳にして父正成を湊川の戦いで失い、19歳にして、兄の正行と正時を四条畷の戦いで失った。以後、正儀は楠木一族の総領として、また南朝を支える武士の主力として戦いに明け暮れる。
 その人となりを、太平記では「心少シ延ビタル方見ケル」人、つまりは優柔不断な人物と評している。まぁ、これは南朝と北朝を行き来した経緯からきているそのままの評価のような気もするが、太平記の知名度からすれば一般に抱かれている正儀の評価とも考えられるだろう。
 では、正儀は本当に優柔不断なだけの人物であったろうか?反論の意味合いを込めて二つのエピソードを挙げてみよう。
 一つは、南朝暦正平14年(1361)、北朝暦康安元年、佐々木勢と対峙した楠木正儀は、渡河して攻め込んできた佐々木勢に弓矢を絶え間なく射掛けた上で突撃し、佐々木勢を散々に翻弄して撃退した。この際、佐々木勢の多くが川に飛び込み大部分が溺死する結果となったのだが、正儀は部下に命じて佐々木勢の兵士を川から引き揚げさせ、捕縛した者を処断しないばかりか、傷の手当てをし、裸の者には着物を与え京都に帰したという。実は遡る事14年前、この正儀と同じ行為を施した武将がある。それこそ正儀の兄である正行であり、戦に明け暮れながらも人の情けを知る武将として後世においても称賛されているのだが、正儀も同じように、戦乱故に時には非情にならざるを得ない場面にも遭遇するが、武勇一辺倒ではない人の情けをよく知る武将であったようだ。
 二つ目は、一つ目のエピソードと同年。将軍足利義詮の元執事、細川清氏が南朝に降り、その進言を以て南朝勢が京都に攻め込んだ際、京都守備の任にあたっていた佐々木道誉は京都を去るにおいて己の屋敷が南朝勢の有力者の宿舎になるだろうことを考えて、あえて屋敷内を掛け軸や花瓶などで飾り立てて退いた。道誉といえば当代一の風流人であり、これもまた道誉流の風流な行いと考えられるが、そんな屋敷にやってきたのが正儀。この風情に感じ入った正儀は、略奪の類は一切行わず屋敷内をそのままに保存し、入洛から僅か19日で京都を去る際には、秘蔵の鎧と刀一振りを置いて屋敷を後にした。この行為に対して「道誉の計略に嵌り、むざむざと秘蔵の鎧と刀を奪われた」とする見方もあるようだが、風流を解する者の行いとも当然捉えることができるかと思う。

 決して優柔不断だけの凡愚な武将とは思えない正儀が、どうして父や兄が忠誠を尽くし命までをも捧げた南朝を裏切り北朝に降ることになったのだろうか。
 その要因を辿っていくと、やはりそこには偉大なる父である正成の存在があるのだろう。
 かつて足利尊氏が後醍醐天皇に対して反旗を翻し、一旦占領された京都を正成や北畠顕家の働きで奪い返すも、九州で勢力を巻き返した足利勢が再び東上してきた際、正成は後醍醐天皇に対して足利尊氏を召し返し、和陸するように奏上した。この時、時勢は完全に足利勢にあった。故に正成は「君臣和陸」、後醍醐天皇と当時武家の総領と目されていた足利尊氏が手を結ぶことによって平和を保つよう奏上したのだ。もっと言えば、後醍醐天皇を守るには、もはや和陸しかなかった。結局奏上は黙殺され、正成は湊川で命を失う事になったが「君臣和陸」は遺命として正行は正儀にも受け継がれた。
 正儀は度々南朝側の和平交渉の窓口となっている。正儀が南朝方武家の中心的役割を担っていたのもあるだろうが、なにより正成の遺命が正儀を和平へと積極的に動かしたのかもしれない。
 しかし、この時代は喧々諤々、くっついたり、離れたり、まぁ忙しい時代であって、一朝一夕に和平はならなかった。ばかりか、時が経つほどに南朝の勢力は衰えていき、更に悪い事に正儀の後ろ盾でもあった後村上天皇が崩御すると主戦派の長慶天皇が即位し、和平派であった正儀は疎まれるようになったと思われ、南朝で肩身の狭い思いをしたであろう。
 正成は奏上も受け入れられず無謀を承知で湊川の陣に赴いた。正行もまた、積極的に戦わぬ姿勢を叱責され四条畷の陣に赴いた。正儀もまた、ここで意地と面目に死していれば正成や正行と同じように忠義者として後に称えられたかもしれない。けれど正儀のとった行動は、北朝への帰順であった。南北統一を推進する、足利義満の管領である細川頼之の熱心な誘いも大きかったに違いない。
 ここが正儀評価の分かれ目だ。正儀はあくまでも正成の遺命を守る為に恥を忍んで北朝に降り、時の権力者である細川頼之の助力を以て和平を成し遂げようとしたのか?それとも、南朝での居場所を失ったから北朝に降ったのか?
 後に正儀は、北朝での後ろ盾であった細川頼之が失脚すると、今度は北朝での居場所を失い南朝に帰参するという行動に出てる。そういう意味では、北朝への帰順も立場の窮状から行き当たりばったりの行動であったと思えなくもないが、必ずしも二つの寝返りが同じ心境であったとは言えない。南朝に妻子を残していた正儀にとって、不退転の決意で赴いた北朝での実りのない日々が気力を奪い去り、後ろ盾を失うことによって、ついには心が折れてしまったとも考えられなくはない。現に南朝への帰参後、ほどなく正儀の消息は絶えるのである。

 明確に正儀の心情を記した資料がない以上、これ以上の推測は私情によって左右されてしまうだろう。楠木の人間なのだから、きっとそこには強い信念があっての行動だった筈だ。いやいや、行動からみれば、優柔不断な人格は明らかだ。とまぁ、結局答えはないのだが、こうしてここに楠木正儀の事を記す以上、それなりの見解を示さなければ締りが悪い。
 個人的に楠木正儀という人物は、楠木一族の名を汚さぬ名将であったと思われる。正儀へ対する非難は全て寝返りという行動を基にした非難であり、後世の人間の私感でしかない。北朝へ帰順するまでの、当時正儀と関わりがあった人の言葉として、正儀を非難する言葉というのは見当たらないのではないだろうか。もちろん記録が残っていないだけの可能性も大いに考えられるが、記録に残されている正儀と、その周囲の人々の行動から察するに、敵味方に限らず一定の評価は受けていたのではないかと推測される。
 では、忠義を称えられた正成、正行と不忠者のレッテルを貼られた正儀の評価を分けたもの、それは「死して忠義者となり、生きて不忠者となる」ということではないだろうか。
 正儀は生きたが故に、不忠者となる時を迎えてしまったのではないだろうか。

 関連作品:京都にての歴史物語「不忠者の朝

(2011/12/25)

<楠木正儀縁の地>

 ・正平7年(1352)、南朝軍による京都攻撃の際に後村上天皇の御座所となり、楠木正儀も布陣した。
  石清水八幡宮⇒http://www.iwashimizu.or.jp/

京都にてのあれこれへ トップページへ