八大神社

「八大神社」

 

 『剣聖宮本武蔵 一乗寺下り松の決闘で名高き八大神社』
 そんな文言を大書した看板が、坂を上り詩仙堂の山門を越えた所の鳥居の左隣に掲げられている。
 鳥居を潜り、なだらかな坂になっている参道を歩いていくと、右手にガラス張りの掲示板が数台並んでいて、その中に飾られているのは、中村錦之介、後の萬屋錦之介主演の「宮本武蔵-一乗寺での決斗-」のポスターやスチールパネル。ちなみに若い人でもわかる俳優さんでいえば、高倉健さんが佐々木小次郎役で出演とのこと。
 掲示板が尽きた辺りで参道は左手に曲がり、右手には社務所、左手に数段の階段の上に本殿が鎮座する。そしてその本殿の左手には、宮本武蔵のブロンズ像と、武蔵が決闘をしたころのものと伝わる松の古木が保存されていた。
 八大神社といえば、なによりも宮本武蔵を置いては語れない。

 社の由緒書きによれば、応永2年(1294)に勧請されたというから、700年以上の歴史を誇る。八坂神社と同じく素戔嗚尊、稲田姫命、八王子命を祀り、北天王、もしくは北の祇園と称され、皇居守護神十二社にも数えられ、後水尾天皇や、霊元天皇、光格天皇らが修学院離宮行幸の際には立ち寄られ御奉納を受けたとのこと。
 ただ、当社は地元に密着した神社としての性質が強く思われ、観光という視点からみれば、西隣の詩仙堂が京都における観光名所に数えられるのに比べ、観光客の訪れは詩仙堂に訪れたついで程度の参拝が多いのではないだろうか。
 参拝客を増やす為には、どうしても宮本武蔵に頼らざるおえないというのが実情なのだろうという勝手な憶測。

 そこで、宮本武蔵と八大神社の関係を記すと以下のようになる。
 なお、ここでは一乗寺下り松での決闘が本当に行われたかどうか、勝敗はどうであったか等の諸々の議論はとりあえず置いておく。
 21歳にして上洛した武蔵は「扶桑第一之兵術」と謳われた吉岡一門の嫡流、吉岡清十郎と洛外蓮台野にて決闘し、これに勝利する。
 次に清十郎の弟である吉岡伝七郎と決闘し、これに勝利する。
 武蔵に二連敗を喫した吉岡の門弟達は汚名挽回を図るべく弓矢を用意し武蔵殺害を計画。清十郎の子である吉岡亦七郎を立て、三度武蔵に決闘を申し込んだ。その決闘の場所こそが一乗寺下り松であり、決戦当日の早朝、決戦の地に向かっていた武蔵が立ち寄ったのが、この八大神社であったという。
 ――彼は死を期したこの危地へくる途中で、八大神社の前で足を止めて「勝たせたまえ。今日こそは武蔵が一生の大事」と彼は社頭を見かけて祈ろうとした。
 拝殿の鰐口まで手を触れかけたが、そのとき彼のどん底からむくむくわいた彼の本質が、その気持ちを一蹴して、鰐口の鈴を振らずに、また祈りもせずに、そのまま下り松の決戦の場へ駆け向かったという。
 武蔵が自分の壁書としていた独行道のうちに「我れ神仏を尊んで神仏をたのまず」と書いているその信念は、その折にふと心にひらめいた彼の悟道だったにちがいない――(吉川英治「随筆 宮本武蔵」より)
 吉川英治曰く、武蔵に開悟を与えた地こそ、この八大神社であったと。
 では、八大神社で武蔵が得た悟道とはなんだろうか。吉川英治の随筆に従えば「我れ神仏を尊んで神仏をたのまず」という一言に表されているが、
 我れ神仏を尊んで⇒謙虚さ
 神仏をたのまず⇒自己を活かしきる
 つまりは謙虚であることによって自己の限界を設けず、自己を活かしきることによって最大限に自己を成長させ得るという自己修練の真髄であったと思われる。

 宮本武蔵というフィルターを通して眺める時、八大神社には神社でありながら神のご利益ばかりではない、人間自身による自己の成長を促す故実を伝えている。
 八大神社を訪れる時には、その心に一抹の武蔵を宿して参拝をしてみるとよいかもしれない。
 もしかしたら、武蔵のように「――そのとき彼のどん底からむくむくわいた彼の本質が」今後の成長の一助となるかもしれない。

 関連作品:京都にての物語「無駄足参り

(2012/02/16)

八大神社ホームページ⇒http://www.hatidai-jinja.com/

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