「村山たか」

 

 文久2年(1862)11月14日の夜、島原遊郭に近い借家にて村山たかはすでに布団の中に入っていたが、そこに20人ぱかりの男達が乱入し、たかを連れ去った。
 翌早朝、たかの姿は三条大橋の袂にあった。連れ去られたままの姿と思われる、素足に着物一枚の姿に荒縄で戒めを受け、三条大橋の柱縛り付けられていた。 

 村山たか、またの名を村山可寿江と伝わる。
「当時尼 村山かずへ 年来五十一、二歳にばかりこれ見え申し候
此の女、長野主膳の妾にして、戌牛年より以来、主膳の関係を相い助け、稀なる大胆不敵の所業これあり、罪科を赦すべからずに候えども、その身女子たるを以て、面縛の上、死罪一等ヲ減ス、もっとも、これ、かずへより白状に奸吏の名目を記すべきの事、なお、此の上役方の再応の吟味ヲ遂げ、奸吏どもに逐一厳科を加うべく候ものなり」(幕末天誅絵巻より)
 上記口上が記された高札の傍らに、たかはこれより三日三晩、生き晒しの身となった。
 また、この期間中にたかの一子、多田帯刀も捕まり、天誅の名の下に蹴上にて斬首の上、首はたかの傍らに晒されたという。

 たかは文化7年(1810)近江国犬上郡多賀村に生を受けた。
 父母は明確ではないが多賀大社般若院にて育てられたという。三味線や、茶道、華道など一通りの教養を身に着け、18歳の頃に井伊直弼の長兄である直亮に侍女として仕えたという。
 ところが21歳の頃に辞すと、今度は京都の祇園下川原で芸妓となった。その中で馴染みとなった鹿苑寺の住職北潤承学禅師との間に子を身籠った為に、同じ鹿苑寺の坊官であった多田源左衛門の下に形式上、引き取られることになった。ここで産まれた一子こそ、後の多田帯刀であった。
 しかし、やはり偽りの関係は続かなかったものか、後にたかは故郷である近江の多賀へと戻った。
 そんなたかが、当時三百俵の捨扶持で「埋木舎(うもれぎのや)」と名付けた屋敷で文化・芸能に親しむ生活を送っていた鉄三郎(後の井伊直弼)と出会ったのは天保10年(1839)頃とされ、二人はやがて愛し合うようになった。今年になって京都市東山区の井伊美術館にて直弼のたかへ宛てた恋文が発見されたが、書かれたのは1842頃と推測され、その内容は藩の反対により会えなくなった、たかへの想いを綴っており、二人の愛情の深さを知ることができる。
 二人の関係はその後も続き、1844年頃にはたかが直弼の子を身籠り出産したとされるが、この辺りから二人の間には感情の齟齬が生まれたようで、弘化3年(1846)に直弼が井伊家の世嗣となり江戸に向かうにあたって二人の仲は終わったとみられる。
以降の詳細は不明だが、生き晒しの高札に書かれたように、たかは長野主膳の妾になったといわれる。

 波乱多き人生とはいえ、村山たかという女性が歴史に名を留めるに至る一事、生き晒しという仕打ちを、なぜ受けなければならなかったのだろうか。
 高札に記されているところの「稀なる大胆不敵の所業これあり」とは、井伊直弼の懐刀である長野主膳に協力し、たかが諜報活動を行い安政の大獄の一端を担ったことを指す。
 では、なぜたかは諜報活動を行うようになっていったのだろうか。
 まず、その開始時期だが、もちろん明瞭な時期というのは特定できないが、井伊直弼が江戸に向かって以降ということになるだろう。なお、この別れには一悶着があったようで、たかの父親とも縁戚ともいわれる般若院慈尊は二人の関係をネタに直弼から金をゆすり取っていたといわれ、この際にも様々妨害を試みたようだ。これに困った直弼が頼ったのが、自身の国学や和歌の師であった長野主膳といわれ、主膳は見事にこの悶着を収めたという。
 主膳はどのようにして悶着を収めたものか、以降も主膳とたかの交流は続き、次第に共に諜報活動を活発化させていく。
 ところで、たかは何の為に、そして誰の為に、動いていたのだろうか。もちろん、憂国の志を抱いていて自発的に諜報活動に従事していた可能性はあるが、政治を男性が独占していた当時女性が置かれていた社会的立場を考えると、それよりはもっと感情的な動機ではなかっただろうか。それこそ、後に風評される長野主膳の為か、もしくは井伊直弼の為か――
 ただ、たかの動機はともかくとして、井伊直弼の片腕として諜報活動を取り仕切る長野主膳にとってみると、たかは諜報活動を行うに適した人物だったのではないだろうか。鹿苑寺の住職や、井伊直弼の心を惹いた事実からも才色兼備であったことはもとより、出生は不明確な部分が多いものの、和歌を通じて宮中に上がり、統仁親王(後の孝明天皇)から言葉を賜ったという逸話があることからも、宮中に上がることが可能であったということが大きい。故に長野主膳は九条家青侍の島田左近と組んで九条関白への工作を行うに、たかを大いに活用したと考えられる。たかの担った役割は大きかったのだろう。
 だが、安政7年(1860)桜田門外の変にて井伊直弼が暗殺されてしまうと、たかが生き晒しになった同年8月には、長野主膳も彦根藩の手によって処刑されてしまた。
 時代の流れは大きく転換していた。
 そして、たかは天誅の標的となったのだ。

 三日三晩の生き晒しの後、たかは宝鏡寺の尼僧に助けられ、一乗寺村の円光寺に身を寄せて出家し妙寿尼と名乗った。
 後に同地の金福寺に入寺し、尼僧としての諸事に励んだという。金福寺の過去帳には井伊直弼の法名と一子多田帯刀の戒名が記されており、菩提を弔う祈りの日々を過ごしていたのだろう。
 同地にて明治9年9月30日に享年67歳にて没した。墓は円光寺にある。

 関連作品:京都にての歴史物語「今宵の月はみちかくて

(2012/08/30)

<村山たか縁の地>

 ・生き晒しの後、たかが晩年を過ごした地。平安初期に安恵が創建し、江戸中期に鉄舟が再興した。松尾芭蕉が鉄舟と親交を深めたという芭蕉庵が、与謝蕪村の再興によって残る。
  金福寺 (関連記事:「2011紅葉見物」)

 ・たかのお墓がある。徳川家康が伏見に学問所として開いたのが始まりで、寛文7年(1667)現在地に移転。新緑と紅葉の美しさで知られ、本堂前には妙音を響かす水琴窟が備えられている。
  圓光寺 (関連記事:「2011紅葉見物」)

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