「足利義輝」

 

 鎌倉の源頼朝から始まる武家の棟梁としての征夷大将軍に求められる資質とは、大軍を効果的に動かす軍略性であり、支配地域を安定的に統治する政治能力であり、そしてなによりも人心を掌握し組織を統率するカリスマ性であるといえるだろう。
 つまり、例え武力を生業とする武家の頂点に立つ者といえども、個人の戦闘能力は重要視されないものといってもいいだろう。もちろん、あるに越したことはないが、例え戦が起きたとしても、将軍は大将として陣中深くで専ら指揮をし、前線へ出る事などはあり得ないのだから、その実力を実践で発揮する場面は稀であろうし、また後世にも伝わっていない。
 しかし唯一、鎌倉、室町、江戸と続く武家の棟梁としての征夷大将軍の職に就任した人物の中で、実践の戦闘の中で目覚ましい個人的戦闘能力を発揮した将軍がいる。それが室町幕府第13代将軍、足利義輝だ。

 足利義輝は天文5年(1536)室町幕府第12代将軍、足利義晴の嫡男として南禅寺に生まれた。幼名を菊童丸。
 しかし、明応の政変にて第10代将軍、足利義稙が将軍職を奪われて以来、将軍権威は失墜し、有力大名、特に京兆細川家により将軍職は形骸化されていた。義輝の父である義晴は将軍の権威回復に努力するが、その度々に細川晴元と対立しては京を追われ、近江の坂本・朽木に退避し、流浪の日々を送ることが多かった。その流浪の日々に、少年時代の義輝は行動を共にし、父の無念をまざまざと見詰めていたと思われる。
 義晴から譲られて義輝が将軍に就任したのは天文15年(1546)僅か11歳の時だった。しかも、この時も親子は流浪中であり、元服の儀式は京ではなく近江坂本で執り行われた。元服し当初は義藤を名乗るが、後に義輝と改めることになる。
 それから僅か4年後、後見していた義晴が死去し、更に前年には、細川晴元の家臣であった三好長慶が晴元と対立し、今度は晴元共々、親子は近江坂本への退避を余儀なくされていた。
 父の死から2年後、義輝は三好長慶と和陸し京へ戻るが、流浪の日々の父の姿が脳裏に焼き付き離れぬかのように、その無念を晴らすかのように、義輝は早くも翌年に細川晴元と組んで三好長慶に戦を仕掛けるが、これに破れて以後5年を近江朽木にて過ごすことになる。
 それでも義輝の権威回復への情熱は冷めることなく、永禄元年(1558年)に三好長慶と和議が成立し京に戻ると、以後は諸大名への栄典の授与や、大名間の対立の調停を行うことによって全国への影響力を増していった。そんな中で上杉謙信や織田信長は義輝に拝謁する為上洛するなど、一定の将軍権威の回復を見せるようになっていた。
 しかし、将軍の権威が回復すればするほど、快く思わぬ者たちがいる。三好長慶は権勢において将軍を圧倒していたものの、将軍家というものに一定の配慮を忘れない、そういう意味では、どちらかというと旧時代の人物だったようだが、その三好長慶が病死すると、それまで長慶の為に抑えられ義輝排除の動きが一気に活性化してしまった。その中心人物こそが、下剋上盛んな戦国期にあっても指折りの梟雄、松永久秀だった。
 ついに永禄8年(1565年)5月19日、久秀の子である松永久通率いる松永勢と、三好三人衆が率いる軍勢、合わせて1万余が義輝の居館である二条御所を取り囲んだ。一方の義輝を守る兵力は僅かな近臣だけであったようだ。

 さて、将軍権威の回復に強い情熱を持っていた義輝は、心から強い将軍を志していたようだ。その為自身も武芸によく勤しみ、その一環として剣術に力を入れていた。
 この方面では将軍という権威が実に効果を発揮したといっていいだろう。当時の名だたる剣豪、新当流の塚原卜伝や、新陰流の上泉信綱から昵懇なる指導を受けることができたのだ。特に卜伝からは奥義である一撃必勝の「一之太刀」を伝授されたといわれ、剣術の腕に磨きをかけていった。

 松永・三好勢に取り囲まれた義輝は、鎧を身に着け、所持する名刀の数々を畳に突き刺し、敵兵を待ち受けたという。なぜ、こんなにも刀を用意したかといえば、刀はその鋭利さ故にすぐに刃こぼれを起こしたり、甲冑など堅いものに刃筋を誤って打ち込めば、曲がってしまったりする為だ。更にの肉を斬り裂けば、その脂が刃に着き切れ味を失うともいわれる。とにかく、武器の憂いなく奮戦する為には、備えを多くしておくことに越したことはないのだ。逆にいえば、義輝は最初からそれだけの刀を使うほどの奮戦を決意し、更にはその自信があったのだろう。
 文献により、その戦いの伝わりようは様々の様だが、かくして義輝は取っては斬り、取っては斬りの大奮戦を繰り広げたと伝わる。
 存分に個人的戦闘能力を見せ付けた義輝だったが、多勢に無勢を挽回するまでには至らず、最後は斬り死にしたとも、自害したとも伝わる。
 享年30歳。
 辞世の句は『五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで』

 かくして最後の奮戦により『剣豪将軍』と渾名され、後世に剣豪として名を挙げた義輝だが――
 その一生とは、実権の乏しい時代の将軍家に生まれた故に、理想とする将軍像を志し、自分は将軍であるという強烈なまでの自意識に突き動かされ続けた一生であったといえるだろう。
 そんな中で義輝が剣術にのめり込んだのは、思うに任せない組織、集団としての権力とは違い、修練すればするほど個としての強さを実感できる剣術を好んだ為ではなかっただろうか。
 義輝にとって剣術とは『強くなれる』という可能性の実感を自身に提供し、将軍であるという自意識のモチベーションを保ち続ける源泉となっていたのではないだろうか。
 つまり、義輝にとって剣術の腕前とは、理想の将軍像を志向する上での副産物でしかなかったのではないだろうか。
 そう推測してみると、剣豪として名を挙げたことに対して義輝本人は――もしかしたら、少々不本意であったかもしれない。
 義輝が見上げた雲は、なんと高いところにあったのだろうか。

 関連作品:京都にての歴史物語「将軍之太刀

(2012/12/20)

<足利義輝縁の地>

 ・足利義輝奮戦・終焉の地
  斯波氏武衛陣・足利義輝邸遺址

 ・足利義輝を含む、足利歴代将軍木像が安置されている
  等持院

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