藤森神社

「藤森神社」

 

 競馬関係者の信仰が厚いということで有名な藤森神社だが、おそらくその名を初めて目にしたのは、競馬にはまったく関係ないところの、また本殿に祀られている祭神とも関係ない(一部関係あるか)ところの、本殿の背後にある摂社の大将軍社についてだったように記憶している。この大将軍社というのは、桓武天皇が平安遷都する際に四方に大将軍を祀ったといわれる社の一つで、南方の守護社であった。京都への興味の入り口が純粋な歴史というよりも、呪術やら魔術やらのオカルティックな方が強かった人間にとって、京都に張られたと伝わる結界の存在は、実に強く興味を引く存在だった。「なるほど、南方の大将軍社は現在の藤森神社ってところにあるんだ」みたいな。。。
 その後、本社としての藤森神社をしっかりと認識したのは、京都検定の勉強中だったように思う。ただ当初は、勝手に要約して「競馬の神様」と思っていたのだが、よくよく調べてみると、あくまでも「競馬関係者の信仰が厚い社」ということになるようだ。

 その成り立ちは、中世に3つの社が合祀したことで藤森神社と呼ばれるようになったという。
 東京堂出版の『京都辞典』では、その3社の名を『真幡寸(マハタキ)神社』『藤尾社』『塚本社』と記す。
 藤森神社の縁起によれば、創建は平安遷都以前とされ、その起こりは神功皇后が三韓征伐の後に、当地に兵具を納め塚を造り、軍旗を立てて祀ったのが始まりだという。延暦13(794)年には平安遷都に合わせて桓武天皇より『弓兵政所』の称が授けられたといわれる。
 その後、永享10年(1438)には後花園天皇の勅により、藤尾社(舎人親王・天武天皇の二柱)を東殿に遷座し合祀。
 塚本社(早良親王・伊豫親王・井上内親王の三柱)は現在の東山区にあったものを、応仁の乱で焼け出された為に西殿に遷座し合祀したという。

 では、なぜ藤森神社と競馬が結びついたのか。
 まず『勝運』というキーワード。そもそも藤森神社の本殿には上記した神功皇后の他に素盞鳴命・別雷命・日本武尊・応神天皇・仁徳天皇・武内宿禰の七柱が祀られており、その多くが武神であることが関係してくるだろう。また藤森神社は菖蒲の節句(端午の節句の別名)発祥の地ともいわれ、節句に合わせて飾る武者人形には藤森の神が宿るといわれたという。また『菖蒲』は『尚武』、また『勝負』へと繋がることから、勝運を呼ぶ神と呼ばれるようになったという。
 次に『馬』というキーワード。これは毎年5月5日の藤森祭の中で行われる馬駈神事が大きく関係していて、その起こりは蝦夷で反乱が起こった際に、早良親王が征討将軍に任命され当社にて出陣式を行った模様を模したことが起こりだという。ただ、この馬駈神事は上賀茂神社の有名な競馬会神事とは異なり、曲芸的な馬術を主体とするもので、これだけではすぐに競馬には繋がりにくい。
 そんな二つのキーワードを結びつけたのは、やはり大正14年に藤森に近い淀の地に、京都競馬場が完成したことが大きいのではないだろうか。競馬関係者にとってみれば、『勝運』と『馬』という二つのキーワードを持つ藤森神社に信心する魅力を感じたのではないだろうか。

 さて、ここからは競馬から離れて、藤森神社の起こりについて、現在語られている縁起を基にした少々の思い付きを展開。
 そもそも気になるのが、縁起にある神功皇后の伝説。キーワードは『軍旗』『兵具を納めた塚』『三韓征伐』。
 まず『軍旗』。これは単純に旗(ハタ)と解釈することができるだろう。そして当初この地に鎮座していたといわれる社の名前が『真幡寸(マハタキ)神社』。つまり単純に立てたのは軍旗ではなく『真幡寸(マハタキ)神社』を創建したということではないだろうか。
 次に『三韓征伐』。三韓とは当時の朝鮮半島の国家である新羅・百済・高句麗で『三韓征伐』とは神功皇后が軍を率いて、それら三国を服属させたという神話であるが、『三韓征伐』の真実はさておき、朝鮮半島の歴史書から見ても倭国が度々兵を出していたのは間違いないようだ。戦となれば、そこに生まれるのが捕虜の存在だ。日本書紀では新羅が王子を人質として差し出したという記述があるが、おそらく倭国の侵攻によって三国より多くの捕虜が日本に連れてこられたのではないだろうか。そして古代、藤森神社がある深草の地を支配したのは、伏見稲荷神社を創建したことでも有名な渡来系の秦(ハタ)氏だ。秦氏は、渡来系民の総称で使われていたともいわれる。つまり、三国との戦いの中で捕虜として連れてこられた人々がこの深草の地に住むことになったことを意味しているのではないだろうか。
 そして最後に『兵具を納めた塚』。初めて縁起を読んだ時、納めたのは『神功皇后が率いた軍』の兵具なのだろうと解釈したのだが、どうも釈然としなかった。なんの意味があるのだろう、と。ところが上記した流れていくと、納めた兵具とは『三国から連れてきた捕虜から没収した兵具』だったのではないだろうか。つまり、反抗できないように戦う手段を奪ったのだ。
 つまり神功皇后の伝説が語る藤森神社の起こりとは、連れてこられた捕虜達の兵具を塚に納める(埋める)ことによって服従を促し、その上に捕虜達(ハタ氏)の為の真幡寸神社を創建することで、この地への定住を促したということを意味しているのではないだろうか。
 なお、京都事典では「本宮は真幡寸神の二座――本宮はこの地の先住民が農耕守護神として雷神を祀ったもの――」と記している。

 現在、伝説の塚は境内に『御旗塚』として名残を留めているのだが、なぜが注連縄が張られた木の切り株が安置されていて『いちのきさん』として親しまれているようで、なんでもここにお参りすると腰痛が治るのだとか。その霊験たるや、かの新撰組局長近藤勇もこの『いちのきさん』に参拝して腰痛を治したのだとか。・・・・・・しかし、『御旗塚』に、なぜに『いちのきさん』?

 とにかくも、何かと多くの御利益を与えてくれる藤森神社だが、梅雨の頃には見た目にも楽しむことができる。
 藤森神社は紫陽花が有名で、別名『紫陽花の宮』とも呼ばれていて、境内2ヵ所の紫陽花苑では、延べ3,500株の紫陽花が咲き誇るとのこと。
 競馬ファンならずとも、季節を選んで訪れてみるのも良いかもしれない。

 関連作品:京都にての物語「女の矜持

(2013/01/27)

藤森神社ホームページ⇒http://www.fujinomorijinjya.or.jp/

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