「百済川成」

 

 名人が描いた絵には命が宿る、そんな話がいくつも語られている。
 例えば知恩院の七不思議に数えられる「抜け雀」は、狩野信政が大方丈菊の間の襖に描いた雀が命を得て抜け出したという話で、永観堂の七不思議にも同じように絵から抜け出した雀の話が語られている。
 また「古今頂著聞集」には平安時代前期の絵師・巨勢金岡が描いた馬が夜な抜け出す話が記載されている。
 以上のように、名人が描いた絵は二次元世界に留まらず、三次元空間に影響を及ぼしてくる。
 さて、今回紹介する百済川成(くだら かわなり)も在命当時は天才的な絵描きとして著名だったようで、彼の描く絵は――臭うんです。

 『日本文徳天皇実録』に記された百済川成の卒伝によれば、仁寿3年(853)に72歳で逝去したとされており、逆算すると延暦元年(782)の生まれとなる。
 元は余氏を名乗っていたが、後に百済姓を賜って百済川成と名乗っている。余氏は百済から亡命してきた氏族と考えられ、川成もその後裔だったと考えられる。
 引き続き卒伝によれば「武猛に長じ、能く強弓を引く」とあり、武芸に長けていたことが伺われ、大同3年(808)には左近衛府に出仕するようになったという。近衛府とは左近衛府と右近衛府からなり、大内裏の警備、及び皇族や高官の警護など務める官職で、武勇が認められたということだろう。
 弘仁14年(823)には美作権少目を拝し、その後各地の国司を歴任したとされる。その人生を卒伝には「時の人、これを栄えとす」とあるので、当時にあって恵まれた人生を送ったのだろう。
 川成を、そんな恵まれた人生に導いたと思われるのが、武勇以上に彼の名声を高めたであろう絵描きとしての才能だ。その評判は朝廷にも聞こえ、度々召されることがあったという。卒伝にも「山水草木等は皆自生の如し」とあり、描いた草木がまるで本物の様であったと伝えている。

 どうも川成の絵の最も優れていた点は、写実性にあるようだ。 
 その代表的な説話が「今昔物語集」にも語られている。
 ある時、川成の従者である童が逃げ出した。原因については語られないが、逃げ出した。すると川成はある貴族のしもべに童を探してくれるようにと頼んだ。けれども、しもべは童の顔を見たことがないので探しようがないと伝えた。すると川成は手元にあった紙にさらさらと筆を走らせて童の似顔絵を描いた。さて、しもべは東西の市へと向かい、それらしい童はいないかと探したところ、やがて似顔絵の瓜二つの童に出会い、これを連れて川成の元へ赴いたところ、逃げた当の童であったので川成は喜んだという。
 川成が描いた似顔絵の写実性に優れていた為に、童のに会ったことがない者でも見付けることができたという話だ。
 またある時、友人である飛騨の工(たくみ)に、自宅に新しいお堂を建てたので見に来ないかと誘われた。実は飛騨の工は平安遷都の折に大内裏の武楽院を建てた程の名工で、自宅に建てたお堂とは、四面に戸が開け放たれているのだが、人が入ろうとすると自動的に閉まるようなカラクリが仕掛けられていた。そのカラクリで川成を試そうというのである。すると、まんまと川成はカラクリに翻弄され、飛騨の工の大笑いを受けてしまった。これに腹を立てた川成は、仕返しとばかりに後日飛騨の工を自宅に招き、一室に案内した。すると、その部屋には死体があり、鼻が曲がりそうな死臭を漂わせていた。これに飛騨の工は一度は逃げるが、川成に誘いに渋々従い部屋にもう一度入ってよく死体を見れば、実は障子に描かれた死体の絵であり、川成はまんまと仕返しを果たしたという。
 余りにも死体の絵が写実性に優れていた為に、ついには飛騨の工は死臭をも嗅ぎ取ってしまったという。

 ――臭うんです。

 残念ながら、川成の手に成ると呼ばれる作品は現存していない。なので、今となっては川成の才能はあくまでも説話の中のものでしかない。
 しかし、科学的思考に慣れた現代の感覚からすれば、絵が命を得て実体として三次元に飛び出してくるという話よりも、余りの写実性に嗅覚をも反応してしまったという話の方が、まだリアリティがあり、そういうリアリティを伴う説話が残るという時点で、当時の社会の中で川成の描く絵というものが特別だったことを示唆しているのではないだろうか。
 百済川成こそ、日本絵画史における写実主義(リアリズム)のパイオニアだったのかもしれない。

 関連作品:京都にての歴史物語「臭う死体

(2013/02/09)

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