「鳥居元忠」

 

 一般に『三河武士』というと徳川家康に三河時代より仕えた家臣の総称で、精強で忠義に厚いといわれる。その中でも『三河武士の鑑』といわれたのが、鳥居元忠という武将だ。
 個人的に元忠の名を知ったのは、「信長の野望~天翔記~」歴史シミュレーションの名作で、大半の武将はこのゲームで知ることになるのだが、初めて元忠を配下にした際、運よく足軽属性がSになったものだから、攻城戦の際にはサクサク壁を登ってくれて(プレイ経験がある方ならおわかりいただけるだろう)主力として活躍してくれたので「使える奴!」という個人的イメージが定着した。ただ、以降のシリーズでは中途半端な能力しか与えられなかったので、天翔記ほどの活躍はしてくれなかったが、それでも強く印象に残る武将の一人となった。
 さて、徳川家の家臣といえば酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政の『徳川四天王』が有名だが、なぜ四天王に数えられない鳥居元忠が『三河武士の鑑』といわれたのだろうか。理由としては、家康の今川家人質時代から仕えた長きに渡る忠勤もさることながら、やはり関ヶ原の戦いの前哨戦といわれる伏見城攻防戦において壮絶な玉砕をとげたことが最大の要因となっているのだろう。
 元忠はいかにして伏見城に散り『三河武士の鑑』と呼ばれるようになったのだろうか。

 元忠は天文8年(1539)鳥居忠吉の三男として誕生したのだが、後に『三河武士の鑑』と呼ばれる元忠に最も強い影響力を与えたのが、父の忠吉だと思われる。
 忠吉は家康の祖父である松平清康の代から仕える松平家譜代の臣で、幼き家康からは祖父のように慕われていたといい、また家康の為に苦しい台所事情のなか財を蓄え、今川義元が織田信長に桶狭間の戦いにて討たれて家康が独立した際には、その財を献上して家康を支えたという。
 そんな父に連れられて、元忠は13歳にして駿府に行き、当時10歳の家康に仕え始める。
 以降、幾度の戦にも従軍し、多くの軍功を挙げる。特に織田信長が明智光秀に討たれた本能寺の変後、甲州の覇権を北条氏と争った黒駒の戦いにおいては1万の北条氏直軍に水野勝成らと共に2千の兵で奇襲を敢行し、これを撃退して甲斐国都留郡の谷村城を与えられた。
 上田城の戦いにおいては真田昌幸に破れるが、小田原の役においては甲州兵を率いて参陣し、岩槻城攻めなどに貢献している。役後、家康の関東移封に伴い下総国矢作城4万石を与えられた。

 慶長3年(1598)豊臣秀吉が逝去すると、天下の形勢は一気に家康に傾いてきた。
 慶長5年(1600)、家康は再三の上洛勧告にも従わなかった上杉景勝を討伐する為に東征することになった。ただし、情勢としてこの東征に伴い畿内では石田三成が反家康の兵を挙げることが予見されていた。畿内における家康の拠点となっていたのは伏見城で、当然三成が兵を挙げたとなれば、伏見城は第一の攻撃目標となることが想像された。ただし、表向きの敵はあくまで会津の上杉景勝なので、あからさまな警戒を表すような大軍を入れておくこともできず、かといって簡単に伏見城を明け渡してしまっては、関東に下った家康が挟み撃ちになりかねない。つまり伏見城には、少数にて多くの時間を稼ぐことが求められた。伏見城に残るということは、高い確率で死を意味していた。
 そんな決死の大役に、家康は元忠を選んだ。元忠は自若として受けたという。
 元忠は少ない人数しか残せないことを謝する家康に、却って伏見城よりもっと多くの兵を東征に率いるよう進言した。ひとしきり思い出話に花を咲かせ、別れの挨拶の後、家康は一人涙を流したという。

 慶長5年(1600)7月18日。五奉行の一人増田長盛による開城勧告を拒否。城兵の数は1800。
 一方、開城勧告を拒否された西軍は、翌19日に大阪を出発し、伏見城に到着次第に銃撃を開始。伏見城を包囲した西軍の総数は、述べ4万を数えた。
 圧倒的な兵力を以て力攻めにする西軍だったが、城兵の奮戦もあり膠着状態に陥る。これに五奉行の一人である長束正家は一計を案じて、城中に籠る甲賀者の親族を人質にとり、内応を迫った。これに一部の甲賀者が応じ、8月1日深夜、城壁の一部を破壊して西軍を招き入れた。これが伏見城にとっては致命傷となり、同日の正午には本丸を残す全ての郭が西軍に制圧されてしまった。
 僅か本丸に残る城兵達は、最早これまでと元忠に自刃するよう勧めるが『鳥居家中興譜』によれば、
「私は後の名に誉れを残す為に戦っているのではない。ただ、一刻片時も敵をここに食い止め時を稼ぎ観応の危機を除かんが為である。雑卒の手に掛かり死後の名を落とすことなど厭わない。自己の名利を貪って主君の大事を忘れるのは忠士ではない。一人になろうとも、敵兵を切滅し節を守り忠義を当せ。ゆめゆめ自害などするな。命の限りに斬り死にせよ」
 と家臣達に激を飛ばし、自ら200余人となった兵を引き連れて本丸より討って出、散々に敵を追いやったという。
 しかし、遂には力尽きて、元忠は一人石壇に腰かけていたところへ迫った雑賀孫市との一騎打ちとの末、その生涯を閉じた。享年62歳。
 伏見城はこうして落城したが、4万の兵を1800の兵で13日間に渡り伏見城に釘付けにした功績は大きく、その間に西軍蜂起の報を受けた関東の家康は、軍を転じて後の関ヶ原の戦いに備えることができたのである。

 さて、戦後の元忠の評価はどのようなものとなったか。
 まず、敵方への影響であるが、西軍諸将も元忠の忠義に感銘したようで、伏見城落城後元忠の首は大阪京橋口に晒されることになったが、礼を厚くして公卿台に乗せられたという。また、京の呉服商佐野四郎右衛門という者が晒されていた元忠の首を盗み、百万遍の寺中に密かに葬った後、探索の手が伸びたことで三成の元に自首した際、三成は四郎右衛門の忠節に感じて罪を赦したという。
 次に徳川家内での影響だが、伏見城落城の報を受けた家康はハラハラと涙を流し、その姿に本多忠勝さえいたたまれずに席を外したという。また、後に鳥居家は徐々に加増され最大で24万石を領するまでになる。しかし、元忠の孫・忠恒の代で無嗣断絶となってしまう。ここで発揮される元忠の功名!公儀の計らいにより、忠恒の異母弟・忠春が大幅な減封とはなったものの大名家として存続を許された。

 忠義者の元忠の逸話として、決して感状は受けなかったというものがある。感状とは、主君から家臣に向けて送られる功績を評価・賞賛するために発給した文書のことで『鳥居家中興譜』によれば、元忠はこの感状を「感状は他君に仕える時に必要なもの」として「御家と共に盛衰を期し、子々孫々に至るまで他家に仕えることはない」から不要と受け取らなかったという。

 かくして、鳥居元忠は伏見城に死して英雄――にならずに『鑑』になった、とでもいえるだろうか。

 では最後に、そんな『三河武士の鑑』元忠への願望を一つ。
 元忠の首を取った雑賀孫市は、後に水戸藩に仕官した後、元忠の嫡男・忠政の元を訪れ元忠の最後を語ったという。
 『鳥居家中興譜』によれば、槍を向けた孫市だったが、相手が総大将である元忠だと知ると名誉を守る為に自刃を勧めたのだという。すると元忠は「莞爾として好くも言いつる者なり」と鎧を脱ぎ捨て腹を十文字に掻き切って、最後は孫市に首を落とさせたという。
 ・・・いや、待て!散々家臣には「自刃せずに斬り死にしろ!」なんて言っておきながら、自分だけ腹を切るのかい!という突っ込み。
 そこで考えてみた。いや、待てよ。孫市が気を使って「腹を切った」ということにしたのではないだろうか。「元忠殿は私なんぞの手に掛かって亡くなったのではなく、名誉の内に亡くなられた」と。そうだ、そうに違いない。じゃないと『三河武士の鑑』なんて尊い響きが、個人的に遠のいて行ってしまうような。
 なので、下記の関連作品では、そんな個人的願望を描いてみた。。。
 よっ、元忠さん、三河武士の鑑!

 関連作品:京都にての歴史物語「時を捧ぐ

(2013/06/19)

<鳥居元忠縁の地>

 ・伏見城の遺構を血天井として供養する
  養源院
  宝泉院
  正伝寺
  源光庵

游月ホームページ⇒http://kyoukasyou-yuuduki.com

京都にてのあれこれへ トップページへ