田辺朔郎像

「田辺朔郎」

 

 京都の人と滋賀の人が喧嘩?をすると、滋賀の人は次の様な脅し文句をいうと、笑い話としてよく聞く。
「琵琶湖の水、止めるぞ!」
 近畿の水瓶と称される琵琶湖があるのが滋賀。そして、その琵琶湖から『琵琶湖疏水』という水路を使って水を引き、日常生活の上で様々に利用しているのが京都。
 京都は水の街、というイメージがあるが、実は京都市内を流れる河川の水量は意外と少なく、近年では井戸水も枯れる場所が多いらしく、今や京都の日常生活における『水』は、琵琶湖疏水に大きく依存しているのだ。なので、そんな疏水を止められた日には・・・
 京都の殺生与奪は滋賀が握っている?滋賀の人が発する脅し文句は、それほどに重いものなのだ。――もちろん、冗談の範囲を未だに超えたことはないようだが。。。

 さて、そんな今や京都に欠かせない存在となっている『琵琶湖疏水』が完成したのは明治23年(1890)の事。琵琶湖から京都へ水を引くという構想は、古くは豊臣秀吉の時代からあったようだが、技術的な問題が大きく実現には至っていなかった。
 そんな中、時代は変わり明治となり、京都府第三代府知事に就任した北垣国道は、近代化の道を歩む京都にとって琵琶湖疏水の実現は重要であるという認識から、遂に実現に向け動き出した。ここで問題になるのが、財政面と技術面。
 国家予7千万円、内務省土木費総額100万円の時代に、琵琶湖疏水には125万円が費やされ、その莫大な財政面では多くを京都市民が負担し「今度来た餓鬼(北垣)極道(国道)」と揶揄されながらもなんとか整えた。
 そして技術面だが、当時多くの大規模土木工事は外国人技師に委ねられていたが、北垣は日本人の手による工事を模索し、その中で一人の若者に白羽の矢を立てた。その若者こそ、田辺朔郎であった。主任技師として内定を受けた当時、朔郎はまだ工部大学(後に東京大学に統合)の学生で21歳だった。

 個人的な田辺朔郎の初見は、京都検定勉強中に公式ガイドブックに琵琶湖疏水の設計者として記載されていた為で、当時は暗記項目に過ぎなかったのだが、いざ調べてみると、琵琶湖疏水の主任技師に就いたのが21歳と知って驚いた。任命する北垣も、受けた朔郎も、強い自信と決意が必要だっただろう。
 朔郎は文久元年(1861)、高島秋帆門下の洋式砲術家である幕臣、田辺孫次郎の長男として江戸で生まれた。
 父を早くに亡くし時代が明治に変わると、叔父の田辺太一を頼り静岡県沼津に移った。なお、叔父の太一は岩倉遣欧使節団に外務一等書記官として随行した人物で、彼の後ろ盾で朔郎はやがて15歳で工部大学校へと入学する。工部大学校では6年間学び、卒業論文で書き上げた「琵琶湖疏水工事の計画」が北垣の目に止まり、朔郎を主任技師に招くことを決意させたようだ。その陰では、工部大学校の当時の校長であった大鳥圭介の推挙もあっただろうと思われる。同じ幕臣である大鳥圭介と田辺太一は旧知の仲であったようで、もしかしたら大鳥圭介は薩長閥優位の時代に、旧幕臣の子である朔郎に特別の期待を掛けていたのかもしれない。もちろん、朔郎が優秀であるということが推挙の大前提であり、また卒業論文を執筆するにあたって実地検査に訪れた京都で右手を怪我してしまい、それでも利き手ではない左手だけで論文を書き上げたという逸話からも伺える、朔郎の精神的な強さを買っていたのかも知れない。
 工部大学校卒業後すぐ、朔郎は京都府御用掛として出仕し、早速計画に取り掛かった。
 工事計画の中で最も難工事が予想されたのが、長等山掘るトンネルで、全長は2436メートルに及び、当時のトンネル工事としては最長のものであった。そこで朔郎は、日本のトンネル工事としては初めてシャフトと呼ばれる竪坑を採用した。つまり、トンネルのある中間点から竪抗を掘り、その底辺よりトンネルのそれぞれの入り口へ横抗を掘ることによって、都合4か所から掘削し工期の短縮を図ろうとしたのだ。
 紆余曲折を経て、明治18年(1885)6月2、3日に琵琶湖疏水の起工式が行われた。遅れて2か月後、長等山の竪抗工事が始まったのだが、この工事は厳しい湧水との戦いとなり、予定深度50メートルを掘るのに8か月を要した。また別のトンネル工事では落盤事故が発生し、一時工夫が坑内に閉じ込められるということも起こった。幸い、その際は犠牲者を出さずに全員の救出となったが、病没も含めて琵琶湖疏水第1期工事では17人の犠牲者があったという。この事実は工事主任であった朔郎の肩に重くのしかかり、後に朔郎は自費で犠牲者弔いの碑を建てている。その碑の表面に刻まれた言葉は『一身殉事萬戸霑恩(一身事に殉ずるは、萬戸恩に霑い)』。朔郎の想いとしては「多くの人が、一身を捧げた君らの恩に潤っている。君らの死は無駄じゃない!」って、ところだろうか。
 起工式からおよそ5年後の明治23年(1890)4月9日に、ついに琵琶湖疏水は竣工式を迎えた。
 朔郎は見事に重責を果たしたのである。

 琵琶湖疏水が京都にもたらしたものは多かった。
 中でも特筆すべきなのは、世界でも最先端技術であった水力発電の導入だろう。疏水計画の当初は水車を増設しての産業増進を描いていたが、水力利用の研究に為に訪れたアメリカのアスペンで朔郎は水力発電を見学し、導入を決意。そうして生まれた電気は街に光を灯し、日本初の電車を走らせ、京都を古都から近代都市へと発展させたのである。

 疏水工事の成功は海外でも注目を浴び、竣工から4年後には英国土木学会より業績を讃えてテルフォードメダルが贈呈されている。
 疏水完成後、朔郎は帝国大学(後の東京大学)土木工学科の教授を務めるが、数年後には北海道庁長官へ転じた北垣国道の招聘に応じて(なお、朔郎は北垣国道の長女と疏水完成間もなく結婚していたので、朔郎にとって国道は義父ということになる)教授の職を辞し北海道に渡り、鉄道建設に情熱を傾けた。
 その後、京都大学の教授として迎えられ再び京都に戻ると、その後も各地の土木事業に関わり、黎明期にあった近代日本の礎を築いていった。
 そして昭和19年(1944)、82年の生涯を閉じた。

 現在、琵琶湖疏水は山科から京都市内へ、その川沿いには多くの桜が植えられ、春には人々の目を楽しませている。特に平安京周辺や哲学の道などが有名だろうか。
 インクラインは疏水を下り物資を運んできた船を、一度船ごと陸揚げして運搬し、再び疏水へ戻す施設として活用され、現在は観光資源として保存されている。
 南禅寺にあるレンガ造りの水路閣も、また朔郎の設計によるもので、今や南禅寺の仏殿と異彩な調和を保ち、訪れる人々に印象的な風景を提供している。

 近代京都の礎の一端を担った田辺朔郎という若者の偉業は、今もしっかりと京都の街を潤している。

 関連作品:京都にての歴史物語「黎明期

(2013/09/16)

<田辺朔郎縁の地>

 ・琵琶湖疏水について
  琵琶湖疏水記念館

 ・田辺朔郎の銅像が立つ
  疏水公園

 ・田辺朔郎設計の水路閣
  南禅寺

游月ホームページ⇒http://kyoukasyou-yuuduki.com

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