京都御苑

「京都御苑」

 

 かつて修学旅行で京都を訪れた頃の認識は京都御苑=京都御所だった。
 ところが、この認識が違うと知ったのは、だいぶ後の事で。
 京都御苑とは、南北は丸太町通と今出川通に挟まれた約1300メートル、東西は寺町通から烏丸通に挟まれた約700メートルに及ぶ広大な敷地のことを呼ぶ。
 一方、京都御所は、その京都御苑の中にある、かつて天皇が住まわれていた一区画の事。
 明治2年(1869)の実質的な東京遷都によって、多くの公家達も東京に移住した。御所を取り囲むように密集していた公家屋敷は取り残され、人が住まなくなったそれらの屋敷は急速に荒廃していき、明治10年(1877)に京都に還幸された明治天皇は、その荒廃振りを憂い、御所や、その周辺の旧観維持を御沙汰され、以降、皇室苑地として整備されたのが京都御苑の始まりとなった。
 それが、戦後「国民公園」として開放されたことによって、現在のように終日その景観を楽しむことができるようになった。
 ちなみに余談だが、京都御所の管轄は宮内庁だが、京都御苑の管轄は環境庁。複雑である。。。

 京都御苑と京都御所は別物、と強調してみたが、やはり御所があっての京都御苑。
 鳴くよ(794)うぐいす、平安京。
 平城京から長岡京へ。そして平安京へ。
 平安京へ遷都した当時の御所、かつての呼び名であれば内裏となるが、かつての内裏は現在御所がある場所からだいぶ西側に動いた、現在の千本丸太町交差点の北方、やや東側辺りにあったようだ。それがどうして現在の位置に移動したのか。それには京都の長い歴史が関わってくる。
 まず、平安遷都当時の内裏は鎌倉時代の嘉禄3年(1227)まで続いたが、268年の間に14回も焼失し、遂に再建されなくなった。
 では、焼き出された天皇は住まいをどこに求めたかというと、有力公家の邸宅などに移り、仮の皇居として『里内裏』と呼んだ。
 現在の京都御所の位置には、平安末期の頃、藤原邦綱の邸宅である土御門東洞院殿があり、この邸宅もいつしか里内裏の一つとなったようで、やがて南北朝の頃、北朝歴代の皇居となって以降、南北朝合一後も他所へ移ることなく、現在の京都御所の礎となった。
 ただし、この御所も荒廃と焼失を繰り返し、現在の京都御所は安政2年(1855年)に平安様式に倣って造営されたものとなっている。

 さて、京都御苑に話題を戻し、その見所を考えてみる。
 まず、上記したように京都御所がある。また女院御所を始まりとする、現在は皇室方の地方行幸啓の際のご宿泊所として使用されている大宮御所。後水尾天皇が上皇となられた際に造営した仙洞御所がある。これらは参観には事前申込が必要となるが、京都御所については春と秋の年二回、一般参観の期間があるので、その期間を利用するのもよいだろう。

 御所の北東角を、通称『猿ヶ辻』という。長方形に囲われた御所の四つの角の内、三つの角は二つの塀が直角に交わっているのだが、東北の角だけは角が欠けて、内側に折りたたむような形で二つの塀が交わっている。そして、その内側の角には烏帽子を被り、語弊を担いだ猿の木造が飾られており、かつその周囲は金網で取り囲まれている。では、なぜこのような造りになっているかというと、一般的にいわれているのが鬼門除けの為の造り、ということだ。災いを運ぶとされる鬼門は北東の方位をいうが、つまり北東の角を削ることによって、北東の角をなくし鬼門を封じてしまおう、という考えらしい。更に、鬼門と反対方位に位置する申(猿)を祀ることによって、より強力な鬼門除けを施しているようだ。ちなみに、ではなぜその猿の木像が金網で囲われているかというと、夜な夜な動き出してはいたずらをした為ともいわれている。鬼門の門番にひょいひょい動かれてはたまったものではないだろう。
 なお、この猿ヶ辻周辺にて幕末の頃、公卿の姉小路公知が刺客に襲われ命を落とすという事件が起きている。朔平門外の変とも、猿ヶ辻の変とも言われる事件は、後に大きな時代のうねりの転機ともなった。(拙作「人斬りの誇り」で取り扱ってますので、よろしければ。。。)

 幕末繋がりでいくと、蛤御門の変(禁門の変)の激戦地として有名な蛤御門は当時の様子を残し、今もその柱には銃痕が残り、激戦の程を忍ばせる。

 九条邸跡には、九条家の茶室である「拾翆亭」が残されており、建てられたのは江戸後期という寝殿造りの面影を残した書院風数寄屋造りとなっている。
 また、その前面には池が広がっているのだが、ここにある厳島神社の鳥居は笠木が唐破風になっている珍しい造りで『京都三珍鳥居』の一つに挙げられている。

 古都を彩る三大祭の内、葵祭と時代祭の行列は建礼門院前の大通りから出発する。

 等々、色々挙げてみたが、やはり京都御苑の見所は皇室苑地として整備された、自然が見せる景観だろうか。春の頃には近衛邸跡の枝垂桜が有名であり、夏には芝生と松林が緑を盛んにし、秋には楓や銀杏が紅葉する。
 また、贅沢なまでに余裕をもって広がる空間は、日常に追われた人々の心にも、ちょっとした余裕を与えてくれるに違いない。

「夏草や、兵どもが、夢の跡」
 とは奥州平泉を訪れた松尾芭蕉が読んだ句だが、御所を中心とした、この無駄にも広い気持ちのよい空間にいると、上記の句にも似た感慨を抱く。
「公家たちの、夢の跡」
 京都御苑とは、あけっぴろな自然の造りによって、積み重ねられた歴史に、容易に想いを馳せられるよう配慮された空間、ともいえるかもしれない。

 関連作品:京都にての物語「贅沢空間

(2014/02/16)

京都御苑ホームページ⇒http://www.env.go.jp/garden/kyotogyoen/

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