「足利義教」

 

 『無類の上』ともいうべき武将。
 明石散人さんは著書『二人の天魔王「信長」の真実』で足利義教をそう称えている。
 『――『九州平定』『比叡山攻め』『南朝剪滅』『関東平定』『宗教界制覇』を成し遂げ、僅かに13年で奥州から琉球まで制圧してしまった未曾有の英雄――』
 と、その業績を称えている。
 この書籍で初めて足利義教という人物を認識した身としては「なんて凄い武将がいたんだ!」と思ったものだが。。。

 足利義教は応永元年(1394)に、室町幕府3代将軍の足利義満の子として産まれた。4代将軍の足利義持は同母兄となる。
 応永10年(1403)に青蓮院に入室。同15年に得度し義円と称する。その後、大僧正、准后となり、同26年から28年にかけて天台宗のトップである天台座主に就任した。
 仏教界にて栄達を極めた義円に転機が訪れたのは同35年(1428)。兄の義持逝去に伴い、石清水八幡宮の神前に置ける籤引きによって後継に指名され、室町幕府6代将軍に就任した。この時34歳。
 それからの業績は上記した通りだが、その手腕は時に人々の理解を超え、恐怖され、その治世は『万人恐怖』『恐怖千万』『恐怖の世』と囁かれ、遂には『悪将軍』と評されるようになる。
 義教は将軍の権威向上を図る為、次第に多くの有力大名の後継問題に干渉し大名家の力を削いでいったが、その標的となることを恐れた赤松満祐によって、嘉吉元年(1441)赤松邸にて首を討たれ、世に『嘉吉の変』と呼ばれる事件で命を落とした。享年48歳。

 足利義教とは、一体何者だったのか?
 人物像に迫ろうとすればするほど、良くわからなくなる。
 まず武家の棟梁たる将軍としての業績は、間違いなく抜群だ。だが一方で、当時の評判は頗る悪い。結果、暗殺されてしまい『将軍、犬死』とまで評されてしまった。
 悪評の理由は、時に『突鼻』という言葉で表現されるという。
 『突鼻』とは?
 『《鼻を突く意から》主人からとがめを受けること。きびしく責められること。また、そのような失敗をしたり、騒ぎを起こしたりすること。譴責』――大辞泉より。
 義教には多くの『突鼻』記録が残るが、例えば――
 ・侍従東坊城益長は義教の直衣始めの儀にて脂燭役で出仕したが、儀式中に笑みを浮かべたところ「将軍を嗤った」と『突鼻』を受けて所帯没収の上、籠居となった。
 ・義教の行列が一条邸前に差し掛かったところ、一条邸にて闘鶏を催していた為見物の人が門前に集まり義教の行列の行く手を妨げてしまったことに『突鼻』し、鶏を洛中から悉く追放してしまった。
 ・室町弟の新築工事に伴い、幕府奉行衆の黒田某が梅の木を献上したところ、その運搬中に枝を一本折ってしまい『突鼻』により、庭師3人は捕えられ、黒田配下の奉行5人も捕えろとの命が下り、3人が逐電。2人が切腹となった。
 ・膳部の役人進士某が出した料理が義教の口に合わずに逆鱗に触れ、追放となった。後に赦免の内意があり出仕したところ、捕えられて首を刎ねられた。
 ――等々。
 この他にも、能を大成した世阿弥も佐渡へ流されていたりするのだが――
 中でも、比叡山攻めと裏松義資に対する処罰は『万人恐怖』に陥れた。
 ・一部の僧が幕府の役人と癒着し財を蓄えているとして、山門の衆徒が強訴を繰り返した。これに幕府は訴えられた面々を形ばかり処罰するが、その対処に山門の衆徒は不満の声を上げ、かつ山門と鎌倉公方が通謀しているとの噂が広がるや、義教は諸大名に命じて軍勢を以て比叡山を包囲させ、一部に焼き討ちをかけた。これには衆徒も降伏し義教も許したが、どうやら怒りの収まっていなかった義教は、後日反抗した衆徒の代表4人を招くと捕え首を刎ねてしまった。これに憤怒した衆徒24人が、比叡山の根本中堂に火をかけ火中に飛び込んで自殺したという。
 ・義教に長男義勝が誕生した。それに伴い生母の日野重子の兄である裏松義資の屋敷に多くの人が参賀の為訪れたが、これに激怒した義教はその人々、六十余人を悉く処罰した。理由は裏松義資が青蓮院門跡時代の義教に不忠の廉があって譴責を受けている身であった為であるという。どうも義教はとにかく裏松義資に憎しみを抱いていたようで、後日裏松義資は屋敷に押し入った盗人によって殺害されてしまうのだが、その黒幕が義教であったと専らの噂だったようだ。ちなみに、宰相入道高倉永藤という人物がその噂を口走った為に、九州へ配流されてしまっている。
 まさに、強権に基ずく恐怖政治。
 更に義教のエキセントリックな政治手法は、湯起請という裁判方法にも表れている。
 湯起請とは、
 『起請文を書かせたうえで熱湯に手を入れさせて、火傷すれば有罪とするもの。』――大辞泉より。
 つまり、神裁に委ねるのだ。ただし、熱湯に手を入れて火傷するのは当然・・・
 義教に疑われれば最後、また訴訟に相手がいるならば、逃げたが敗け。
 まるで重しを付けて水に落とされ、浮かんで来れば魔女、沈めば無罪(そして死)とされた魔女裁判と同じことだ。
 この湯起請を、義教は好んで採用したという。

 足利義教とは、一体何者だったのか?
 もう一つの疑問は、将軍就任の切っ掛けとなった、石清水八幡宮で行われた籤引きを本人がどう捉えていたかということだ。
 明石散人さんは、上記著書において義教と三宝院満済の共謀によるいかさま籤としている。なるほど、余程籤引きに味をしめたのか、純粋な武家政治には及ばなかったようだが、義教は将軍就任後も課題に出くわすと籤引きで選択の決定を繰り返したのである。例えば最後の勅撰和歌集である『新続古今和歌集』の撰集の議題が持ち上がった際にも「神慮覚束なし」と籤引きし、結果として撰集が決定した。こうなると、まるで義教が上手く神慮を操っているかのようにも思えるが、時には義教に不利な結果も出ている。
 ・後小松上皇崩御に伴い、諒闇(天皇が父帝の崩に伴い喪に服すること)問題が浮上した。後小松上皇の跡を継いだ称光天皇に子がなく崩御された為、伏見宮家から後花園天皇を猶子とし即位させていたのだが、後小松上皇の後光厳一統と後花園天皇の崇光一統である伏見宮家は観応擾乱に端を発する犬猿の仲であり、また後小松上皇と何かと確執の多かった義教は伏見宮家を贔屓しており、後小松上皇の諒闇に難色を示した。これに対し三宝院満済は、諒闇は当然の事として義教を説得し、それでも煮え切らない義教は「神慮覚束なし」と籤引きさせた。結果、諒闇実施の卦が出た為、諒闇が行われることになった。
 ただし、考えようによっては伏見宮家を納得させる為の仕組んだ神慮であったと見る事ができる為、一概に義教が神慮に踊らされていたとも言い切れない。
 果たして、義教は神慮を操っていたのか?それとも、操られていたのか?
 この解釈一つで、義教のイメージは大きく変わる。

 足利義教とは、一体何者だったのか?
 天台座主を勤め、神慮によって就任した将軍。
 自身が神仏と近しい存在であると意図、もしくは自覚していたのは間違いないだろう。
 頭脳は明晰も、性格は独善的。調和よりも、独裁を希求する。
 ――天才。
 良くも悪くも、幅広い意味合いにおいて足利義教にはそんな言葉が当てはまるのではないだろうか。

 室町幕府という体制側から眺めた時、体制の構築と権力向上という面において義教の業績は大きかった。
 一方で、義教によって高められた室町幕府将軍権力は、義教の死により一気に凋落し、8代将軍義政時代の応仁の乱に象徴されるような、家臣同士が主導する大乱を許すことになり、やがて時代は戦国時代を迎えることになる。

 室町幕府という支配体制下から見上げた天に、一際の輝きを残し瞬く間に消えて行った妖星。
 足利義教が残した軌跡は、今も謎に満ちた妖しさを宿している。

 関連作品:京都にての歴史物語「渇望

(2015/02/03)

<縁の地>

 ・足利家の菩提寺
  等持院

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