「謀反人の忘れ形見」

<登場人物>

・津田信澄(つだのぶずみ)

時代:安土・桃山期

 

「良いですな若。殿にお気に召していただけるよう素直にお応えするのですぞ」
「心配いたすな勝家。それよりも私の事を『若』と呼ぶそなたの方が怪しまれ様ほどに」
「あっ、いや、それは・・・」
「あはははっ、そう難しく考える事はあるまい。謀反人の子供は謀反人の子供らしく振舞えばいいだけじゃ。私は思った事を語るだけじゃ。殿に偽りは通用せぬ」
 困惑顔の老臣に、白面美しき若武者の笑顔。
 透き通った秋空の、風心地よきある日の事。

 永禄10年(1567)。
 この9月に念願の稲葉山城を落とした織田信長は、城の名を『岐阜城』と改めると、戦火の復興もままならない城内に仮屋敷を建て、上洛へ向けての次なる策を練っていた。
 そんな家臣達との協議の最中。
 信長は廊下を走っているのかと見間違うばかりの速さで通り抜けると、なんの躊躇いも無しにとある部屋に入り、上座の席に付いた。
 日当たりの良い部屋。日差しを照り返す磨かれた床板。そこに畏まって待っていたのは直垂正装姿の2人の武士。1人は織田家重臣、柴田勝家。そしてもう1人は、
「この度、殿のご威光のお陰をもちまして、無事に元服をいたしました。津田七兵衛信澄でございます」
 形式通りの挨拶の後、信長の正面に座した若武者が名を告げた。
「構わぬ、面を上げよ」
 信長の声に促されて、信澄は顔をはっきりと正面に表した。白地の直垂。その容姿は麗。されど眼差し強きは凛。
「ほう、あやつに良く似てきたものだな」
 目を細めた信長。しかし、その口元には皮肉の笑みが浮かべられていた。
 津田信澄。彼の父は、信長の弟であり、謀反の廉で討たれた織田信行であった。
 信行討伐の後、幼少であった信澄は処刑だけは逃れ、勝家の元に預けられ養育されていたのだ。そしてつい先日、十二歳で元服を遂げたのである。
「のう、勝家よ、随分と立派に育ったものではないか」
「はっ、未だ若年ながらも、文武に秀でた才能には拙者も舌を巻くほどで」
「ほう、それは将来が楽しみではないか。で、また担ぎたくなったか?」
「いえっ、めっ、滅相も!」
 信行が謀反を企てた時、勝家は信長ではなく、信行の旗の下に参じたのである。信長はそれを皮肉ったのだ。
 慌てふためく勝家を尻目に、信長は改めて信澄をその視界に捕らえ質す。
「その方はどう思う? その方の父が成した事を。儂よりも、信行の方が織田家の跡取として相応しかったか?」
 ずばり確信を突く問いである。なぜ信長は当時の信澄を殺してしまわなかったのか。そしてなぜ、今、こうして問いただすのか。信澄の答えによっては、改めて信長は決断を下すであろう。
 されど信澄は涼やかに微笑むと、
「私が思いまするに、我父は力量を見誤ったのです。殿の現在なされている事を見れば一目瞭然でありましょう。きっと父が立ったならば、保守にはなれど進展はなく、こうして美濃の地に織田の者が立つ事もなかったでしょう。今だからこそ言える事かもしれませぬが、父は殿の力量を見破れなかったのです。それに引き換え、私はこうして今を見る事ができます」
 つまりは、信長の器量に感服していると。復讐、怨念の類は一切ないと身の潔白を訴えたであった。
 その言葉は洗練され、また信長を納得させるに足りる言葉であった。
「あははっ、成る程な。確かに人というものは見た目に左右されやすいものよ」
 かつて信長は『うつけ者』と呼ばれていた。

 かくして信澄は信長に仕える身となったのであるが・・・
 天正十年(1582)、本能寺の変の折、信澄は謀反人のレッテルを貼られ討たれてしまった。運命とは皮肉なものである。

(2007/12/10)

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