「黒猫」

<登場人物>

・沖田総司(おきたそうじ)

時代:江戸期

※この物語は京都が舞台ではありません。

――今日も来ている。
――そうやって、俺の死にゆく様を笑うか。
――そうはいかない。今日こそお前を叩き斬って・・・
 総司は枕元の刀を抜くと、ふらつく危なげな足取りで、裸足のまま庭に下りた。
 千駄ヶ谷、植木屋平五郎宅の離れ。陽光が容赦なく陰多い総司を照り付ける。
――あいつを斬れば、またみんなといられる。
 あいつ――黒猫。総司が歩む先、庭の木の陰に、小さく丸まってじっと総司を見詰めている一匹の黒猫がいた。

 元治元年(1864)6月5日、池田屋事変。そこで総司は、一匹の黒猫を誤って斬ってしまった。
 戦いの中、背後に突然気配を感じた総司は、瞬間、振り向きざまの一刀を振るっていた。
 手応えはあった。が、そこに人はいなかった。すぐ側にあった階段に斬り付けた訳でもない。斬ったのは――黒猫だった。それは池田屋で飼っていたものか、野良が入り込んだものか定かではなかったが、見事に首を断たれ絶命していた。
――見るな・・・
 眼、眼が、黒猫の見開かれた黄金の瞳が、総司を見上げていた。恨めしげに、悲しげに。
 開かれた眼(まなこ)。一点を見詰める視線。総司から一切逸らそうとしない。まるで、呪いでもかけているうに。
 するとどうしたことか、途端に総司は胸に苦しみを覚えた。熱い、熱いものが込み上げてきて今にも爆発しそうだ。
――見るな・・・、見るな!
 総司は黒猫の視線に目を釘付けにされたまま、声にならない絶叫を発した。と、体の中に沸き上がった熱き血潮が一気に吹き上がった。
 吐血。
 総司は昏倒した。意識が消えゆくまで、黒猫の視線に捕らわれたまま。
 それからである。労咳の症状が重くなったのは。
 総司は黒猫の正面に立つと、弱々しくも刀を八双に構えた。もう往時のような迫力は一切ない。だが、刀を振り下ろせば、猫一匹、間違いなく斬れるだろう。
――こんな所で死ぬ訳にはいかない。いや、死ぬ訳がない。
 近藤や土方を始めとする周りの人々がみな、口々に言ってくれるのだ。お前の病は治ると。
――そうだ、こんな病治るんだ。あいつさえ斬り殺してしまえば――呪いは解ける。
 総司は黒猫の眼を見続けた。黒猫もまた、総司を見詰め返す。
 一陣の風が吹き抜ける。
「ニャァー」
 突然、黒猫は愛嬌ある姿を見せた。総司の足元に擦り寄り、かわいく鳴くのだ。
 総司は動かなかった。刀も振り下ろさなかった。
――こいつさえ斬ってしまえば。こいつさえ・・・
「・・・斬れない・・・」
 総司の手から刀が零れ落ちた。そして両膝から崩れるようにして座り込んでしまうと、猫を抱き上げ、涙を流した。だが、総司は笑っていた。黒猫を斬れなかったというのに、どうしても微笑んでしまうのだ。
「くそッ、斬れない。・・・くそう・・・」
 笑っているのに、なんとも悲しく、儚かった。
 涙は、とめどなく溢れた。

 数日後、総司は25年という短い人生に別れを告げた。

(2007/12/10)

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