「将軍之太刀」

<登場人物>

・足利義輝(あしかがよしてる)

時代:室町期

 

 進士晴舎が三好・松永の横暴を嘆きながらも「黄泉の先導を仕らん」と腹を切った。
 時は永禄8年(1565)5月19日、二条御所は1万余の三好・松永勢に包囲、侵入され、辺りは鬨の声で溢れていた。
 兜は被らずに鎧だけを身に纏った将軍足利義輝は、近臣の者と別れの杯を交わすと、秘蔵する数多の名刀を運ばせ、その一本一本を抜刀し御殿の畳へと突き刺していった。
 喧騒迫る中、床几に腰を据えた義輝の表情には覚悟が伺えた。興奮するでもなく、恐怖するでもなく、唇を真一文字に結び、只管に正面を見据え、敵が現れるのを待った。
 しかし、前日に襲撃の予報を受けた義輝に死の覚悟はなかった。清水参詣の為と公言し、三好・松永が兵を集めているという報告を受けた義輝は、すぐさま退避の為に御所を後にした。四方を掘や土塁で堅固にした二条御所とはいえ、軍勢の整っていない現時点で三好・松永勢に攻め込まれてはひとたまりもなく、ここは一度退避し、再起を図るのが賢明と判断した為だ。
 ところが、この行動に対して近侍する奉公衆が異を唱えた。ここで退いては将軍の権威が失墜すると。
――権威の失墜。この言葉に、義輝は抗うことができなかった。
 室町幕府12代将軍足利義晴の嫡子として生まれた義輝は、父と共に京を追われ、流浪する日々を長く過ごした。そこでまざまざと知らされる将軍権威の失墜。権威の回復を願う父の想い。多感な成長期にそれらを植え付けられた義輝は、11歳にして将軍職を継ぐと、将軍の権威回復を最大目標に、合戦、及び政争を繰り返し、どうにか権威の回復を実らせてきた。故に、ここで再び権威を失墜させることは、父の願いに反する上に、自己の成果を水泡に帰すことになった。
 義輝は二条御所へと戻った。

 剣豪将軍とも呼ばれる義輝には、名高き二人の剣術の師匠がいた。一人は新当流の塚原卜伝。もう一人は新陰流の上泉信綱。
 卜伝は義輝に奥義一之太刀を伝えた。一之太刀とは、一撃必勝の太刀と伝わる。そして一之太刀の要旨とは、特別な剣技ではく『一撃必殺の環境を整える』ことにあるという。
 また、信綱が開祖となった新陰流の究極の境地は『無刀』にあるという。
 そもそも襲撃の予報を受け、すみやかに退避を決断した義輝の思考には、卜伝の教えが根底にあったといってもいい。利なくば、速やかに態勢を整えて次に必勝を期することこそ一之太刀の極意であった。にも拘わらず、卜伝の教えに反し、こうして利のない戦いに身を置いてしまった。
 また、義輝の周囲に連なる墓標の如く鈍く光る刃の数々。これもまた、信綱の教えに反しているとも言えた。
 ではなぜ、義輝は二人の師匠の教えに反してしまったのか。それはすなわち、義輝が一介の兵法者ではなく、征夷大将軍という大職の地位にあるが故なのだろう。
――我は将軍として、将軍の太刀を振わん。

 衆寡敵せず、近臣の奮戦も虚しく、敵勢が義輝の目前に雪崩れ込んできた。これぞ敵大将と見定めた敵勢の面々は、将軍殺しの汚名を避けようとする者、勝ち戦に我が保身に走る者、将軍を討ち取って望むままの褒美を得ようとし機会を耽々と狙う者、それぞれの思惑を交差させつつ、また名高き将軍の剣の腕前を警戒して一気に距離を詰めようとはせずに、一時、遠巻きに取り囲むように間を保った。
 これに対して義輝は先に動いた。多数を相手にする場合の極意は、いかに一対一の局面を作れるかに懸かっている。局面を作る為には、地の利を活かせる場所に相手を引き込むか、もしくは自ら進んで局面を生み出すかだ。
 滑るように歩を進めた義輝は、極意を知らぬ者に、これぞ卜伝奥義の一之太刀かと思わせる右手上段からの一撃を、戦意乏しき雑兵の首筋に打ち下し、袈裟に斬り抜いた。刃筋の立った刃は雑兵の胴丸をも途中まで斬り裂き、右脇腹辺りでようやく止まっていた。返り血を浴びつつも、すぐさま前蹴りの反動で刃を引き抜くと、今度は打ち掛かってきた敵兵の刃を一歩引いて身を半身にし交わしながらも、打ち下した敵兵の腕を相手の刃の上から被せるように斬り落とした。
 敵勢の機先を制した義輝は、尚も猛獣が如き気迫と勢いで自身に優勢な局面を作り出しつつ、取り囲む敵兵を各個撃破していった。敵兵に名刀の刃が食い込み瞬時に抜けぬとなれば惜しみなく名刀を手放し、一旦引き換えして突き立てた間近の名刀を手にし、追い掛けてきた先頭に立つ敵兵に打ち掛かった。その名刀の刃が欠ければ、次の名刀を引き抜いて手にする。
 この義輝の戦い方に、気の利いた者が突き立てた名刀を引き抜かんと囲いから突出すれば、良き獲物とばかりに義輝はこれを討ったので、これに続く者はなく、義輝は思い通りの戦いを続けることができた。
 だが、その勢いもやがては尽きる。十数人と倒した義輝の肉体を徐々に疲労が蝕み始め、その動きはみるみる落ちて行った。じりじりと室内の奥に追い詰められ、周囲を見渡せば、共に戦っていた近臣はすでに皆討たれていた。それでも敵勢は、最早義輝の威に圧倒され、容易に近付く者はいなくなっていた。その代わりに新たな手段として、敷かれていた畳を引き剥がし、それを以て義輝に対抗しようと囲みをじりじりと狭めてきていた。
 この囲みを脱するならば、残った力を振り絞って最も弱き一点を突くしかない。そう想い定めて、いざと意を決した時、背後の戸に隠れていた敵兵によって足を払われ、義輝は転倒してしまった。すぐさま起き上がらんと顔を上げ、膝を立てたが――
 畳によって十重二十重と義輝を抑え込んだ敵勢は、畳の上から次々と槍や刀を突き刺した。

 

「五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで」

(2012/12/20)

京都にての人々「足利義輝

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