「悪党」

<登場人物>

・赤松満祐(あかまつみつすけ)

時代:室町期

 

 悪党の血が騒ぐ。
「教康、儂は出仕を止めるぞ」
「いかがなされますので?」
「当面の目くらましだ」
「当面?ならば、その後は・・・」
 赤松教康は問おうとしたが、上座に坐し、引き攣り上がった口角に、ぎらつく目で彼方を見詰める赤松満祐の様子に、息を呑むように口を噤んだ。

――お主は醜いのう。
 満祐を見る足利義教の目は、常に語っていた。
 『身長最短、世人、三尺入道と号す』とあり、満祐の身長は極端に低かった。
 当初、満祐はその目を特別には憎まなかった。なにも義教だけではない。満祐を見る世人の多くの者が満祐に見せる目だった。
 満祐は義教に良く仕え、義教もまた満祐を良く使った。
 二人の関係に変化が生まれたのは、永享五(一四三三)年から七年にかけ先代からの幕府の重臣が次々に世を去り、義教による専制の色が濃くなり出してからだった。人はその時代を『恐怖の世』と呼んだ。
 室町幕府は多くの有力大名によって支えられている。義教は将軍による専制を推し進めるべく、有力大名の力を削ぐことに力を注ぎだした。その手法は横暴であり、時に暗殺さえも厭わなかった。
 その矛先は、やがて幕府の侍所を勤める四職の一家である赤松家にも向けられた。義教は赤松家庶流の赤松貞村を寵愛しており、赤松家宗家である満祐の領地を没収し、貞村に与えようとしているとの噂が絶えなかった。現に永享十二(一四四〇)年、満祐の弟である赤松義雅の領地が没収され、満祐にも分与されたのだが、ほか貞村と細川持賢にも分与され、実質赤松家宗家の領地は削られていた。その為、義教と満祐の対立は最早表面化し、いつ義教が他家に用いた様な、強大な権力を翳した強引な手に出るとも限らない状況となっていた。
 第六代室町将軍足利義教は強き将軍だった。
 関東にあっては長く抗争を続けてきた鎌倉公方足利持氏を討伐し、後に持氏の遺児、安王丸・春王丸を結城合戦において討ち取った。
 畿内にあっては後南朝後胤を断絶し、長くすぶっていた南北朝の皇統後継問題に終止符を打った。
 九州にあっては、大内氏を以て幕府に従わない在来勢力の平定を遂げていた。
 その権力は強大であり、今や誰もが義教の機嫌を損ねまいと恐れた。
 だが、満祐だけは違った。権威が大きければ大きいほど、反骨心は熱く煮えたぎった。『悪党』と呼ばれた曾祖父、赤松円心の血がそうさせるのだろうか。
 かつて満祐は、義教の兄である第四代将軍足利義持にも反抗していた。状況は今と同じようなもので、義持が寵愛した赤松持貞に満祐の所領を没収し与えようとしたのに対し、三度拒否の上、京都の自邸に火を放って領国の播磨に引き上げるという所業に出たのだ。
 これに義持は激怒したが、管領畠山満家等の取り計らいにより謝して許されていた。
 そして今回も満祐の反骨心は限界に振れた。義持の時よりも、義教のその権力が大きいだけに、より限界に。

 満祐は幕府への出仕を止めた。表向き、満祐は狂乱し赤松家重臣の屋敷に謹慎させられたということになった。
 時を経て、満祐は嫡男の教康をして義教を赤松邸へ招待し宴を催すことにした。
――邸の池に鴨の子が沢山生まれ、その泳ぐ様が面白いので。
 そう、誘いを掛けた。
 義教は応じた。
 嘉吉元(一四四一)年、六月二十四日。義教は午後四時頃に多数の供を連れて赤松邸に入った。
 満祐はその報を、住まう重臣邸で聞いた。
 その日は朝から雨が降り、風も強くうすら寒い日だった。それでも満祐は縁側に座り、薄闇に走る無機質な雨筋を瞳に映していた。齢六十を迎えた、皺の深く刻まれた顔を憮然と構えていた。
 事が起きたのは宴が始まってから二時間後の午後六時頃。御座の間にて猿楽を鑑賞していた将軍一行のさなかに、突如乱入した甲冑武者の一振りによって義教は首を跳ねられ絶命した。
 世にいう『嘉吉の変』の勃発だった。
 義教を討ち取った報は、すぐさま満祐の元にも齎された。
 雨は未だ降っていた。固く閉ざされた赤松邸の門が満祐の到着を受け開かれると、邸内には多くの篝火が焚かれ、赤々と輝いていた。
 鎧を着こんだ教康が満祐を迎える。
 満祐の弟の赤松則繁が迎える。そして手にした義教の首を満祐に突き出した。
 義教の首は落とされた時に床とぶつかったのか、鼻が曲がり、口角は引き攣り、目は半眼に沈んで、多くの血痕が顔の表面を赤黒く染めていた。それは最早、モノとして動かない。
 満祐は義教の首を一頻り眺めた。眺めて表情を変えず、一言だけ呟いた。
「なんと醜い」

(2015/02/10)

京都にての人々「赤松満祐

 関連作品:
籤引き将軍」三宝院満済
渇望」義円(足利義教)

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