「落書き」

 

 この間、テレビのニュースを見ていたら、右京区は嵯峨地域の観光名所「竹林の小径」での、竹への落書き被害の問題が取り上げられていて、僧侶らがその防止啓発のビラを観光客に配っている映像が流れていた。まぁ、今なにかと話題の落書き問題ですが、昨日のニュースではその発端となった世界遺産登録されているイタリア・フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂に落書きをした短大生が謝罪に行っている映像が流れていた。大聖堂側は寛大にその短大生を迎えいれたそうだが・・・。
 まっ、大きな声では言えないが、正直言ってしまえば落書きしたい気持ちは分からなくもない。そもそも旅の本質が非日常であり、一種の異常な精神状態の中で理性の箍(たが)が外れ、高揚した気分の勢いに任せて『記念』という名の自己主張として刻み込む。その行為はある意味南極点やエベレストの頂上に自国の国旗を突き立てる冒険家となんら変わらず、多かれ少なかれ、大部分の人々にもその欲求は潜んでいるのではないだろうか。そういう意味で、落書きしたい気持ちもわからなくはない。
 だが、単純に落書きは犯罪である。そして、旅の本質は非日常であるが、人間社会の枠を抜け出せない以上、最低限の理性は持ち合わせなくてはいけない。
 それに管理人は思うのだが、落書きはその書いたものの価値を下げるのではないかと。嵯峨野の竹林はその景観が美しいから価値があるのであって、落書きに汚された竹林に遠方から訪れる価値があるだろうか。そうすると、せっかくその場を訪れた落書き者自身の、嵯峨野を訪れたその旅自体の価値が下がってしまうのではないだろうか。旅の価値が下がるということは、旅に関わって費やされたお金や時間、更には思い出までもの価値を下げることになってしまうのではないだろうか。価値ある場所を訪れたからこそ、生まれる価値というものがあるのではないだろうか。そういう意味で落書きは、自分の価値を貶める行為となるのではないだろうか。
 もちろん価値の基準は人それぞれ、千差万別あり一概に言えるものではないが、管理人はそう考えたい。日常を離れてどうせ訪れるならば、訪れて良かったと思える場所を訪れたい。そして、そう思える場所として保存したい。

 それでも、どうしても訪れた記念にという欲求を抑え難い人は……嵯峨野であれば直指庵(じきしあん)には「想い出草」と呼ばれているノートが置かれており、思いの丈を記入できるようになっているので、そのノートに記入してみてはいかがだろうか。また八幡市にはその名も通称「らくがき寺」と呼ばれる単伝庵(たんでんあん)があり、ここでは300円の有料ながらも堂内の白壁に願い事が書き込めるようになっているので、一度訪れてみてはいかがだろうか。

 旅の恥はかき捨てとはよく言ったものだが、残る恥は捨てられないのでご注意を。

(2008/07/10)

直指庵  単伝庵

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