上賀茂神社

「上賀茂神社」

 

 上賀茂神社、正式名称:賀茂別雷<かもわけいかずち>神社は、平成6年(1994)に世界遺産にも登録された観光の名所だ。見所は、一に歴史に裏打ちされた、国宝の本殿や権殿、及びその多くが重要文化財にしてされている社殿の数々だろうか。二に葵祭を筆頭とした、毎月なにかしら行われる催事の数々だろうか。三に広大な境内に、清い小川の流れと緑の木々や芝生を内包した開放感溢れる風景だろうか。
 創建は天武天皇の御世である678年頃と伝える。祭神は賀茂別雷神。ご神体は上賀茂神社の北北西やく二キロにある神山<こうやま>で、境内細殿の前にあるてっぺんに松葉をさした円錐形の立砂は、その神山を模したものと言われている。ご利益は厄除けと、平安遷都に伴い鬼門封じの役割の担ったことから方除けのご利益もあるとされる。
 歴史的な重大事をあげれば、未婚の皇女が祭祀を務める斎院制度が設けられたことだ。これは伊勢神宮の斎宮制度と並び他に例はなく、皇室との強い繋がりを表している。

 とまぁ、上賀茂神社の概要を大雑把にあげると上記のようになるだろうか。その上で、ここではもう一歩踏み込んでみたいと思う。それは賀茂社と京都の水の関係だ。
 そもそも祭神である賀茂別雷神は、その名の通り雷を司っている。6世紀欽明天皇の御代、日本国中に風水害が襲った際に原因が賀茂大神の崇りとされた(この時、賀茂大神を安んじる為に執り行われた儀式が賀茂祭の起源という)ことからもわかるように、雷を司ることは雨を、すなわち水を司る。そして上賀茂神社の位置をみると、京都盆地に置ける賀茂川の上流を押さえている。更に上賀茂神社よりも時代を下って創建された下鴨神社は賀茂川と高野川の合流地点を押さえ、その先の流れを鴨川と呼んだ。ついでに挙げれば、同じように水を司る貴船神社を長らく摂社として支配下に置いていた歴史もある。ともあれ、京都盆地は北東から東南に傾斜していることもあり、賀茂社(賀茂氏)は京都の水源を見事に押さえていたという印象がある。このことから、鬼門封じという役割と併せ、賀茂社が平安京の皇室より重要視されたのではないだろうか。なぜなら水は生活用水はもとより、皇室の重要な儀式である『禊(みそぎ)』に必要不可欠だからだ。
 禊とは、すなわち穢れを払うこと。禊には清浄な水が求められる。川は下流にいくにつれ清浄さを失う。そういう意味で京都盆地の水源を握る賀茂社の水は最も清浄といえる。
 今でも葵祭りの際には、斎王代による禊神事が行われている。
 ある日上賀茂神社を訪れた際、一人の男性が御手洗川へ祝詞と共に形代を流し穢れを払う様子に出くわした。
 管理人も楢の小川に手を差し入れてみた。水はとても冷たく、清涼感を覚えた。その清涼感は、もしかしたら小川につけたその手から、穢れが流れた証なのかもしれない。

 もし上賀茂神社を訪れる機会があれば、多くの見所と共にその清涼感を味わってみるのも一興かもしれない。
 とある夫婦も、その清涼感を感じたようで――京都にての物語⇒「

 ちなみに、今回一つの疑問が浮んだ。境内の細殿前にある立砂(写真上段)は神籬<ひもろぎ>(神様が降りられる憑代<よりしろ>)の役割を果たしているのだが、なぜ二つあるのだろうか?上賀茂神社の祭神は上記した賀茂別雷神なのだから、一つでいいではないか。もしくは、賀茂別雷神の他にもう一柱の神を宿らせるのか?ならばそれはどなた?それとも賀茂別雷神はすでに本殿に座すと考えて、別の二柱を宿らせるのか?ならばそれはどなた?二柱と考えてしっくりくるのは下鴨神社の祭神である賀茂別雷神の母神:玉依姫命<たまよりひめのみこと>と、賀茂氏の祖神:賀茂建角身命<かもたけつぬみのみこと>だが・・・うーん、謎だ。てか、カモ氏がそもそも複雑なので、以後何かわかったらまたの機会に雑文を綴りたいと思う。
 こんな風な疑問にぶち当たるのも、一つの楽しみだ。

(2008/08/31)

上賀茂神社ホームページ⇒http://www.kamigamojinja.jp/

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