京都霊山護国神社

「京都霊山護国神社」

 

 その坂道を下から見上げると思わず二の足を踏み、実際に登り始めるとげんなりするような急勾配で、運動不足の身にはちょっとした苦行に思えるその道は『維新の道』と名付けられている。果たして、維新の苦難は当然こんなものではなかっただろうが、少しの苦しみを味合わずに訪れるよりは、維新の道は霊山護国神社を訪れる者の心に維新の労苦を思い起こさせ、維新を成し遂げんとした者達への畏敬の念を引き出させる。
 霊山護国神社に祀られている維新の志士の中でも、やはり一番の人気は坂本龍馬だろう。次いで中岡慎太郎か。拝観料の300円を払い、更に蛇行する階段を登っていくと、その途中には拝観者が石盤に残していった想いがそこかしこに並べられていた。それを見ていくと、ほとんどが坂本龍馬へのメッセージで、根強い人気を実感する。その両名の墓は階段を登りきったすぐにある鳥居の奥に並んで安置されていた。ここまで登ってきた疲労で膝が笑っている状況の中で両名の墓に手を合わせると、それ程ミーハー気分で訪れなくとも、強く感動してしまうのは両名の名の魔力か、はたまた上昇している血圧のせいだろうか・・・
 両名に手を合わせたならば、今度は振り返ってみるといい。そこは展望台のようになっていて、両名が見詰めているであろう京都の街が一望できる。きっと両名に今後も京都の街を見守ってもらいたいという後世の人々の願いが、両名の墓の位置をこの場所に定めたのだろう。吹き抜ける風を受けての眺めは、本当に気持ちがいい。因みにわかり辛いが、この京都にての物語トップページの背景は霊山護国神社からの京都の景色だったりする。場所は両名の墓よりも北にずれた、売店の前からの光景。ベンチがあるのでそこに座ってボーっとするのは管理人のちょっとした楽しみでもある。

 さて、そもそも京都霊山護国神社とはなんぞや?となると、その歴史は明治元年、志半ばで倒れた維新志士達を祀る一社を創建するべく明治天皇が勅旨を出されたのが始まりで、最初『霊山官祭招魂社』と言い、後に各道府県に護国神社を指定することとなって昭和14年に現在の名称となった。護国神社とは、国家の為に働き亡くなった人々(主に日清戦争~太平洋戦争の戦没者)を祀る神社のことで、都道府県ごとの神社は、それぞれ出身者の英霊を祀っている。管理人も当初は護国神社の存在など知らず、京都の護国神社を知ってから地元の護国神社を調べてみたら、ああ、あれがそうか、という結果になった。
 なので京都霊山護国神社を訪れたならば、護国神社という存在を知るきっかけにし、なおかつ日本の近代史に目を向けるきっかけとなればよいのではないだろうか。なにも勉強せい!とは思わないが、日本が戦争をしていたのを知らない若者がいるという話だけは少々いただけないお話だと思う。

 しかしだ、それでもやはり観光客が京都霊山護国神社を訪れるメインは、維新志士達のお墓だろう。
 では、他に誰の墓があるかというと梁川星巌、梅田雲浜、頼三樹三郎、月照信海、来島又兵衛、久坂玄瑞、吉村寅太郎、平野国臣、真木和泉守らの名が見える。なお、墳墓拝観の際に頂いたパンフレットには宮部鼎蔵、北添桔麿、古高俊太郎、池田屋惣兵衛などの主に池田屋事件に関わった面々の名が見られるのだが、その紹介の仕方が「新選組と近藤勇に討たれた志士たち」という見出しだったので、この見出しはいかがなものかと苦笑いしてしまった。また墳墓頂上には、木戸孝允(桂小五郎)と木戸松子(幾松)の墓がある。
 その名を見ていけば、そうそうたるメンバーが揃っているので幕末好きであれば一度は訪れてみたくなるだろう。

 お墓を前にすると、その人を身近に感じてしまうから不思議だ。もちろんそれは思い込みでしかないのだけれど、その人物を深く思うよい時間になるのではないだろうか。
 深く思い、ちょっと語りかけてみるのも面白い。当然お墓はなにも語ってはくれないし、基本的にはあの世というものから本人が語ってくれる筈もない。しかし、その人物のことを深く思っていると、その人物の生前の行動の中に問いかけの答えが見付かったりする。ともするとそれは、会話が成立したような喜びだ。
 すべては思い込みと一蹴されてしまえばそれまで。けれど思い込むことによって、維新の志士たちの想いを身近に感じるのも一興ではないだろうか。
 志士たちの名を探すだけでも楽しいが、せっかく訪れたならば志士たちと語り合ってみるとより楽しいかもしれない。

 関連作品:京都にての物語「必死

(2008/11/13)

京都霊山護国神社ホームページ⇒http://www.gokoku.or.jp/

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