神泉苑

「神泉苑」

 

 二条城の南にひっそりと広がる池がある。神泉苑といえば名は有名だが、今となっては申し訳程度に形を残すばかりとなっている。北門より入るとすぐの所に龍頭船が浮んでいてかつての情景を再現しているのかと思いきや、これは境内に併設されている料理屋のもの。憩いの場としてもベンチが備えられている訳でもないし、かといって見るべきものもこれといってない。ただただ、名を偲ぶばかりの空間だ。

 神泉苑の歴史は平安遷都と共に始まる。今よりも広大な敷地を有し、大内裏の南にあって豊かな自然を残していた。当初は皇室の遊行の場として舟遊びや曲宴、歌舞などが催されていた。また鹿や池には多くの魚が生息し、手頃な猟場としても重宝されていたようだ。謡曲「鷺」の舞台も神泉苑だ。
 だが神泉苑の名が今に残る要因は、なんといっても斎場としての役目だろう。中でも貞観5年(863)に行われた御霊会は庶民にも解放し盛大に執り行われたようで、また厄払いの願いを籠めて66本の鉾を立て神泉苑に送ったことが後の祇園祭の起源ともいわれている。更に神泉苑といえば雨乞いの場としても有名であり、その始まりは空海といわれ、現在も池のお堂に祀られている善女龍王(ぜんにょりゅうおう)を勧請したのも空海といわれている。 その後も多くの雨乞いが行われたようで、後一条、後朱雀天皇の頃の雨僧正こと仁海は、祈れば必ず雨を降らせたという。また小野小町による雨乞いや、源義経と静御前の出会いも神泉苑での雨乞いがきっかけだったと伝わる。
 以上のような事情により鎌倉時代までは幕府の保護を受けていた神泉苑だったが、南北朝の動乱の頃より荒れ始め、応仁の乱以降は荒廃の極みをつくし、なかには勝手に苑内に田を開く者も現れたという。そして決定的な打撃が徳川家康による二条城の造営だった。二条城の造営により神泉苑は敷地の大部分を奪われ、有名無実の存在と化した。
 その後、神泉苑は東寺真言宗の寺院として復興され、現在に至る。

 歴史を知らなければ、神泉苑に観光的価値は見出せない。けれど歴史を知って訪れるならば、多くの歴史物語を体感することができるだろう。
 ぜひとも神泉苑を訪れる際は、面倒でもちょっとした知識を備えていくことをお薦めする。
 それでも歴史なんか知るか!ってことになれば・・・境内には日本で唯一という毎年方向を変えて祀る恵方社がある。ちょっと珍しいお社なので、見るなり祈るなりしてもよいかも。
 そうそう、あと池にはアヒルがいるので、その姿に和むのもいいかも(管理人が訪れた際にはいたが・・・)。

 関連作品:京都にての物語「悪男避、良男現

(2009/05/28)

神泉苑ホームページ⇒http://www.shinsenen.org/

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