仁和寺

「仁和寺」

 

 管理人が初めて仁和寺を訪れたのは中学の修学旅行の時だった。グループ行動で訪れた仁和寺の記憶は、強い日差しの中、他に観光客の姿も無いひたすらにだだっ広い境内を歩いたということ。歴史や建築物に興味の薄かった当時のこと、仁和寺はとても詰まらない所、という印象しか残らなかった。仁和寺を出た後、南に下っていく路地にあった、おばちゃんが一人で経営するようなお好み焼きか、焼そば屋さんで昼飯を食べたことの方が返って印象深い。友人だけで見知らぬ土地で出会い頭の店に入り昼飯を食べるということが、当時の管理人にとってはとても新鮮な出来事だった。だからそれに比べてしまうと、仁和寺の印象ははるかに霞んでしまった。

 そんな一中学生の印象に残念ながらほとんど残らなかった仁和寺は、光孝天皇の遺志を引き継いだ息子の宇多天皇により、仁和4年(888)年に創建された。後に出家した宇多法皇が第一世門跡として仁和寺に入ってからは、御室御所と称され、代々法親王が門跡を継承することにより、諸宗各本山の最上位を占めた。その隆盛は鎌倉時代に入っても続いたが、応仁の乱により一山ことごとく灰燼と帰し、その後およそ150年の間は双ヶ丘に堂舎を構え、法燈を守るばかりとなった。再建は江戸時代に入ってからのことで、徳川幕府3代将軍徳川家光の援助を受けて現在のような伽藍を整備するに至った。そして平成6年(1994)には世界文化遺産に登録された。
 見所としては、慶長18年(1613)造営の内裏紫宸殿を寛永年間の復興時に移築した金堂があり、これは国宝に指定されている。また重要文化財に指定されている御影堂には、同じ慶長年間造営の内裏清涼殿の古材が用いられている。他には江戸時代の画家尾形光琳の屋敷から移築した遼廓亭(りょうかくてい)、江戸時代末期に光格天皇好みで建てられた飛濤亭(ひとうてい)の両茶室が著名で、重要文化財にも指定されている。

 しかし、なんといっても仁和寺の目玉は江戸初期に植えられたという200本にも及ぶ御室桜だろう。
 御室桜には二つの特徴がある。一つ目の特徴は他の京都市内の桜と比べ遅咲きであるということだ。通常市内の桜が3月下旬から咲き始めるの比べ、御室桜は4月下旬に盛りを迎える。その為、京都市内最後の春を飾る桜として有名だ。そしてもう一つの特徴として樹高が低いということがある。原因についてはこの地の浅い地下に岩盤がある為に桜の根を深く張れない為とも言われてきたが、近年ボーリング調査した結果、地下2-2・5メートルより深くなると、どこも粘土質の固い土壌となるようだ。どちらにせよ、根の成長が妨げられた為に樹高が低くなったと推測されるらしい。樹高が低い桜、と聞くと華やかさに掛けるような印象を抱くが、視線に間近な高さに連なる桜の峰はとても豪華である。樹高が低い為に花弁が密集する為か、とても密度のある、重厚な景観を演出してくれる。可憐さというよりも、桜の持つ力強さが印象的な桜だ。
 なお、京都の人はこの樹高の低さにかけて鼻の低さをして「仁和寺さんの桜のようやなぁ~」というらしい。決して誉められたと浮かれてはならない。

 仁和寺は桜の時期とその他の時期では様相が一変する。まず桜の時期は境内に入るのにもお金がかかる。そしてとにかく人が溢れている。仁和寺に向かう市バスの中も大混雑だ。それでも一見の価値は充分あるように感じられる。
 ところが、桜の時期を外せば仁和寺境内は静寂に包まれた広々とした空間が広がっており、御殿や宝物館を除いて境内は自由に拝観できる。中学生の頃の管理人が感じたようにこれといってインパクトのある見所はないが、そもそも仁和寺の特徴は御室御所と呼ばれたように御所風の優美さにある。それは心穏やかに、静かに堪能するのがいいだろう。そういう意味では、平時の静けさは仁和寺を味わい尽くすに幸いなのだろう。
 仁和寺の両面の良さを味わう為には、やはり最低二度、時期を別けて訪れるのがよいかもしれない。
 また仁和寺北西の成就山には四国八十八ヵ所霊場の砂を持ち帰り整備された「成就山四国八十八ヵ所霊場」と呼ばれるコースがあるので、気になった方は一度巡ってみるの一つの楽しみになるだろう。

 関連作品:京都にての物語「桜の中の桜

(2009/08/08)

仁和寺ホームページ⇒http://www.ninnaji.or.jp/

京都にてのあれこれへ トップページへ