「京都観光論」

 

 そもそも、京都っていつから観光地になったの?となった場合、さて、どのように答えるか。。。

 そもそも京都は平安より続く都の地であり、地方から人が訪れるという意味では、それこそ平安の時代よりあっただろう。ただ、それは観光というようなものではなく、実務的な上洛が大部分であっただろう。
 では、いつから物見遊山的な観光というものが京都の地に根付いたかといえば、やはり江戸時代になるのだろう。要因として挙げられるのが、江戸期の政治の安定ではないだろうか。政治の安定は街道整備などに繋がり、また安定した生活は人々により一層の文化的意識を高め、日本文化の中心地である京都を志向させたのだろう。こうして京都観光の下地が作られたのではないだろうか。
 それに伴い『京童』『京童追跡』『京雀』『京羽二重』などの京都観光案内書が刊行されるなど、人々は伊勢参りと併せて京都を訪れることが多かったようだ。

 京都市産業観光局編纂の「平成18年京都市観光調査年報」によれば、1年間に京都を訪れた観光客数は4839万1千人との事だ。単純計算で、実に日本国民の3分の1が平成18年だけで京都に訪れた事になる。もちろん、管理人のように1年間に何度も京都を訪れている人間もいるので、その点は留意が必要だが、それでも大した数値だ。間違いなく、日本一の観光地といえるだろう。因みに同じ平成18年の東京ディズニーランド&ディズニーシーの入園者数が2581万6千人とのことなので、倍近くも差がある(※ただし、単一施設で見た時のディズニーランド&シーの入園者数は、やっぱり化け物だと思う・・・)。

 さて、一度比較対象としてディズニーランド&シーを引っ張り出したので、更に比較対象とさせて頂きたい。
 ディズニーランド&シーを人に言わせれば「夢の国」であるらしい。管理人などはとっても捻くれているので、着ぐるみの中に入っている人間を意識せずにはいられないのだが、あるディズニー好きの友人に言わせれば「ミッキーはミッキー」と言い張って譲らない。まさに「夢を見に行く国」だ。旅行や観光の本質が『非日常』であるとすれば、まさに理想的な施設といえるだろう。
 対して京都はどうかというと、やはり人々が求めているのは『非日常』の世界だろう。ここ最近、東山辺りを散策していると、変身舞妓さんの姿を良く見かける。そのようなサービスを提供する店も増えているようだ。これこそ代表的な『非日常』体験だろう。また京都といえば神社仏閣が観光地として人を集めているが、今でこそ管理人はその辺にある社などにも興味を持って訪れたりしているものの、考えてみれば元々地元の神社やお寺に好んで行くことなどなかったのだから、当時を考えれば京都にて神社仏閣を巡ることもまた『非日常』であったといえるかもしれない。
 では、ディズニーランド&シーが『夢』を非日常とイコールして売るならば、京都の売りはなんであろうか。とても強引で乱暴はあるが、一言でいうならば『雅(ミヤビ)』ということになるのかもしれない。詫びさびも、それ自体は質素ながらも、志す姿は『雅』ではないだろうか。非日常的な『雅=華やかさ』。

 以上に見るように、観光地として京都とディズニーランド&シーはとてもよく似ている。
 それもその筈、京都観光文化検定試験公式ガイドブックに次の一節がある。 
「日本文化を凝縮したストーリー性をもつ京都は、観光客4千万人以上を誘引する日本最大のテーマパークといえよう」
 テーマパーク――日本においては、まさにディズニーランド&シーはその代名詞ではないか!
 京都がテーマパークを自認するならば、ディズニーランド&シーにおいてミッキーはどこまでいってもミッキーであるように、京都にて観光客を迎える京都人は、どこまでも『雅』でなければいけないのである。観光客に日常に立ち返らせるような振る舞いを垣間見せてはいけないのである。……てな極論。まぁ、無理は承知の勢いばかりで、こんな事を書いてみた。京都の方々、ゴメンナサイ。。。
 冗談はさておき、確かに京都はひとつのテーマパークなのである。

 京都には京都の日常がある。『京都らしい』日常ばかりではない。
 けれど、それを省いても京都には『非日常』を楽しむコンテンツは豊富に用意されている。
 ぜひとも京都を訪れる機会があれば、日常の憂さを忘れて、テーマパークに遊ぶ気分で、京都という『雅』な世界を楽しんでみてはいかがだろうか。それこそが、京都観光の真髄だろう。

 因みに京都にての『非日常』の中にも、皆様の日常に役立つ事はあるかもしれない。
 それを提案するのが「京都にての物語」。←一応、宣伝。。。

(2008/02/29)

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