「早良親王」

 

 早良親王といえば生前の行いよりも、どうしても怨霊としてのイメージが強い。桓武天皇に長岡京を10年ばかりで捨てさせ、平安遷都を決断させたのも早良親王の怨霊から逃れる為という説があるぐらいだ。

 悲劇の親王、早良親王は光仁天皇の第二皇子として生まれた。同母兄には後に桓武天皇となる山部王がいる。
 皇位からは疎遠な天智系の皇子であった父の白壁王、後の光仁天皇は幼少の早良親王を東大寺に入れ、光仁天皇が即位すると「親王禅師」と呼ばれ、東大寺内で強い影響力を持ったといわれる。
 天応元年(781)に兄の桓武天皇が皇位に就くと、早良親王は還俗し皇太子に立てられた。桓武天皇45歳。桓武天皇の12歳年少という説を採れば、早良親王33歳のことだった。
 しかし、それから4年後の延暦4年(785)年に藤原種継暗殺事件に関与したとされ、桓武天皇の命により乙訓寺に幽閉されてしまった。この時早良親王は身の潔白を示す為に絶食し、10日余りの幽閉の後、淡路島に流されることになり移送されたが、その途中、高橋津辺り(現在の大阪府守口市)で絶命してしまった。
 この悲劇的な壮絶な死が、後に怨霊伝説を生むことになる。

 さて、では藤原種継暗殺事件とはなんぞや?というお話。
 藤原種継は桓武天皇の信任が厚かったといわれる一人。長岡京遷都では主導的役割を果たしていた人物でもある。
 そんな種継が遷都間もない長岡の地で弓矢により射殺されるという事件が起こった。当時桓武天皇は平城旧宮にあって長岡を留守にし、早良親王がその留守を守っていた。
 一報に急遽長岡に戻った桓武天皇は、容疑者の一斉捕縛を行う。すると、その捕縛された面々をみるとなんと春宮坊に関わる者たちが多かった。春宮坊とは律令制度の中の一機関のことだが、いってしまえば皇太子付の人々のことだ。となれば、皇太子がこの事件に関わってない訳はないという理屈。
 こうして桓武天皇は早良親王幽閉の命令を下した。――というのが表向きなお話。
 この事件に関しては様々な説が出ている。やれ、桓武天皇が実子の安殿親王(後の平城天皇)を皇太子にしたいから早良親王を廃する為の策略だとか、いいや実際に早良親王は暗殺に関わっていたのだ、とか。憶測ばかりできりがないが、今や事実は闇の中。
 正直犯人は誰でもいい。いや、切がないし。
 問題はあくまでも、事件の関与を疑われ早良親王が幽閉されたという点にある。この点に関していえば、命令を下せるのは桓武天皇ただ一人だ。
 上記したように、当時桓武天皇は実子である安殿親王に皇位を渡したいと考えていたという説がある。実は早良親王の立太子は桓武天皇の意思ではなく父光仁天皇の強い要望により決まったことだった。つまり、桓武天皇にとってみれば早良親王は非常に邪魔な存在だったという可能性が強いのだ。
 藤原種継が殺された。もしかしたら計画性のない通り魔的犯行だったかもしれない。「猪と思ったら違った」みたいな。けれど、桓武天皇にとったら実行犯などどうでも良かった。
 早良親王に動機はある。そもそも早良親王は長岡京遷都には反対だったと思われる。上記したように早良親王は東大寺と強い関係があった。長岡京遷都に際し、桓武天皇は寺院の移転を認めずに仏教界の締め出しにかかった。当然南都仏教界は猛反発する。追い込まれた彼らが頼る先こそ、早良親王に違いない。つまり長岡京遷都という点において早良親王と藤原種継は対立関係にあったのだ。
 ここから桓武天皇を思惑が急速に実行されたのではないだろうか。その方法として、桓武天皇には一つのお手本があったに違いない。それが井上内親王による光仁天皇呪詛事件だ。これは光仁天皇の皇后であった井上内親王が我が子の他部親王がより早く皇位に就くことを望み光仁天皇を呪詛したという疑いで、この事件により井上内親王と他部親王は幽閉され、ついには暗殺されてしまった。実はこの事件を裏で操っていたのが、山部王(桓武天皇)を立太子させたい藤原百川であったといわれている。桓武天皇はこの事件の一部始終を間近で見ていた可能性が高い。
 果たして桓武天皇は早良親王に近い春宮坊の面々を捕縛させた。その上で早良親王を幽閉した。
 ここで管理人の思いつき。幽閉された早良親王は身の潔白を示す為に絶食したことになっている。これは本当だろうか?実は後付であり、本当は食事が与えられなかったのではないだろうか?桓武天皇の命令か、それとも桓武天皇の意を汲んだ現場の判断かはわからないが、上記したように井上内親王・他部親王の扱いと関連付けて見てしまうと、幽閉の先に待っているのは確実なる死ではないかと考えてしまう。餓死させたとしては聞こえが悪いので、絶食と歴史書には記された可能性はないだろうか。
まぁ、いくら歴史は勝者の歴史とはいえ、歴史書を疑い出したらそれこそ切がないので、あくまでもこれは管理人の思いつき。

 そんなこんなで、早良親王は大怨霊の道を辿る。
 起こる起こる、天変地異や桓武天皇周辺の人々の死。
 早良親王を廃してまで立太子した安殿親王は幼少から病弱だったらしいが、余りにも病が続くので占わしてみたら「早良親王の崇り」という結果が出てみたり。
 崇りとは、霊魂が現実世界に影響を及ぼすという考え方よりも、その人の死に後ろめたさを感じている人間が生み出す幻想と考えた方が一般的には現実味がある。そういう意味で早良親王は潔白であり、悲劇の皇子なのだ。
 ここから桓武天皇は必死に早良親王の霊を宥めようとする。何度も僧を淡路島にある早良親王の陵墓に派遣し、読経供養をさせている。それでも崇りは治まらない。墓の周りに堀を作り、墓守を置いてみる。これはみだりに墓を汚さない為とあるが、早良親王の霊が外に出られないようにする為の処置でもあるだろう。
 ついには都を長岡京から平安京に移す。
 早良親王の遺骸を淡路島から大和八島陵に移す。
 早良親王に崇道天皇を名を贈る。
 藤原種継事件で罪に問われた人々を許す。
 結局桓武天皇は死ぬまで早良親王の怨霊に苦しみ続け、許されることはなかったようだ。早良親王の怨霊は平城天皇にも引き続き崇り続けた。
 結局早良親王の怨霊は、それに関わった人々が生きている限り祟り続けたのだろう。
 逆に知る者がいなくなった頃に、ようやく崇りは鎮まったのだろうか。

 現在、京都市内にある怨霊と呼ばれた人々の魂を御霊として敬い祀る上御霊神社、下御霊神社にも共に早良親王が祀られている。
 また左京区には崇導神社があり、ここでも早良親王が祀られている。
 生前は直接平安京に関わりを持つことはなかった早良親王だが、かつて平安京と呼ばれた地にしっかりと根付いている。
 結局、早良親王の怨霊から逃れるべく平安遷都したというのであれば、桓武天皇の行いは随分と大掛かりな悪あがきでしかなかったようだ。

 関連作品:京都にての歴史物語「幽閉

(2010/05/23)

<早良親王縁の地>

 ・早良親王が藤原種継暗殺の嫌疑を受け幽閉された。
  乙訓寺ホームページ⇒http://www.eonet.ne.jp/~otokunidera/

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