「北条重時」

 

 北条重時という人。
 これまでまったくお目にかかったことがなかった、その人。
 もしかしたらお目にかかっていたのかもしれないが、まったく印象に残っていない、その人。
 その人の正体は、六波羅探題北方を務め、後に連署に就任し、極楽寺殿と呼ばれ鎌倉幕府において重きをなした人物。それでもやっぱりピンとこない。
 まず、鎌倉時代をよくわかっていない。源頼朝が開府し、二代頼家、三代実朝の死後は・・・北条時宗時代の元寇に飛んで、その後は一気に北条高時の幕府滅亡。これが、鎌倉時代のどうにか有していた知識。
 六波羅探題は学校の教科書にも載っていたので聞いたことはある。ただ、北方、南方があったことは知らない。
 執権は知っていても、連署の意味はよくわかっていない。
 極楽寺殿。これは大河ドラマの「北条時宗」を見ていた時に聞いたような、聞かなかったような記憶しかない。
 つまり、本当に誰ぞや?という第一印象しか受けなかった人物だが、これが調べてみるとまた・・・な~んも面白くない人。痛快な逸話一つ残っている訳でもなく、歴史的にみればとても影が薄い人物。
 けれど――鎌倉幕府においては、本当に重きをなした人物だったようで。

 北条重時は鎌倉幕府2代執権、北条義時の三男として誕生した。重時の活動の初見は、承久元年(1219)7月19日、九条道家の子である三寅、後の将軍頼経の鎌倉入府に際し、供奉の行列の中に陸奥三郎という名で見える。当時22歳。その後、小侍所別当に補任され、2年後の承久の乱を経て、寛喜2年(1230)三33歳にして六波羅探題北方に就任した。以後、南方を併せた六波羅探題の主導的役割を担い「執権探題」とも呼ばれた。
 六波羅探題北方就任から17年後、執権北条時頼の招聘により鎌倉に下り、連署に就任して幕政を主導した。
 さて、まず小侍所とは、将軍を警護する役職のことで、別当とはその長にあたる。
 次に六波羅探題とは、承久の乱後幕府の出先機関として朝廷の監視と西国支配を担った。
 最後に連署とは、執権の補佐役であり執権に次ぐ重職だった。
 つまり重時は22歳で将軍警護のトップに立つと、33歳で幕府の朝廷折衝における代表者兼、西国の成敗(今でいうなら西国を管轄とする警察・裁判所のトップ)を担い、50歳にして武家政権のトップ2に上り詰めたのだ。
 康元元年(1256)連署を退いて出家し、5年後の弘長元年(1261)極楽寺にて逝去。享年64歳。

 輝かしい経歴を持った重時だが、どうも面白くない。なぜ面白くないかといえば、身の処し方が見事なまでに無難な印象を受けるのだ。唯一、気になる記述が残っているといえば、仁治元年(1240)に時の連署、北条時房の死去に伴い鎌倉内部において不穏な動きが囁かれる中、平常高の日記「平戸記」に記載された、重時の屋敷に天狗が出現したという噂話ぐらいなものが。後に最後の執権、北条高時が天狗と酒宴を開いていたという逸話といい、北条氏の衰退が兆すとどうも天狗が現れるらしい。
 それはさておき、重時の無難さとは、その政治的バランスの良さにあるように思える。
 例えば、六波羅探題における重時のもっとも重要な立ち位置は、朝廷との折衝における幕府の代表者であるということだ。故に、幕府の意向は絶対であり、折衝役として朝廷に厳しい注文をしなければいけない時もある。しかし、重時は朝廷とも比較的無難に接し、その即位には幕府の強い意向が働いていたとはいえ、後嵯峨天皇からは強い信頼を得ていたようだ。
 また、管轄内で起こる紛争についても片手落ちな判断は下さずに、極力双方の言い分を調整し、妥協点を見つけて鎮静化させている。嘉禎元年(1235)に起きた岩清水八幡宮と興福寺の紛争に置いても、両当事者と接触し、必要に応じて幕府と緊密に連携し解決に導いている。
 なお、例え紛争に身内が係っていても、その方向性に狂いはない。宝治元年(1247)に重時の甥にあたる顕雲阿闍梨が興福寺別当覚遍僧正と乱闘事件を起こした時には、乱闘の張本人として顕雲方の侍を庇うことなく六波羅に召し出している。
 更に、熱心な念仏信者であった為か百姓への慈愛深く、支配者層に横暴があれば、これを厳しく断じた。寛元元年(1243)には若狭国太良庄の地頭に対し、百姓に対する非法・狼藉を罰し、狼藉停止・改易の下知状(命令書)を下している。
 これらの活躍を見ていく限り、己の正義に従い、バランスよく事柄を判断できる人、そんな人間像が浮かんでくる。

 漢籍の『説郛(せっぷ)』という書物に、次のような記述があるそうだ。それは東晋の武将桓温が347年に諸葛亮に仕えていたという老人に対し「諸葛丞相は、今でいえば誰と比べられるか?」と問うた所「諸葛丞相が存命中はそれほど特別なお方のようには見えませんでした。しかし、諸葛丞相がお亡くなりになられてからは、あの人のような方はもういらっしゃらないように思います」と答えたという。
 三国志演義では稀代の軍師として語られる諸葛孔明だが、実際は戦闘には出ず、もっぱら内政に手腕を発揮していたという。つまり老人が語ったのは、民が望む当然の事を当然のようにこなしていた孔明がいなくなって初めて、当然と思っていた事が、当然ではなかった、という事だろう。
 有能な為政者とは、案外目立たないものなのかもしれない。そういった意味では、重時が為政者として有能であったが故に、残されている歴史書から浮かんでくる重時の人物像とは、とっても面白くない人として映ってしまうのかもしれない。
 それにしても、民主主義において政治家とは人気商売のようなところがある現代だが、そういった意味では諸葛孔明や重時のような優秀な故に目立たない為政者が出現できる土壌にないというのが、なんとも民主主義の皮肉な一面だろうか。

 さて最後に。
 重時は『六波羅殿御家訓』という家訓書を残している。その中に子息の長時に宛てたと思われる家訓が重時の人物像を的確に表しているように思われる。
 第一条の抜粋になるが、
 ――惣テ心広ク、人ニ称美セラレ(心を寛大にし、人から賞賛されるようにし)――
 ――万人ニムツビ、能ク思ハレ(あらゆる人と親しく接し、好意を持たれるようにし)――
 ――妻子、眷属ニイタルマデ、常ニウチ咲テ、怒レルスガタ見ユベカラズ(妻子や身内の者に対しても常に笑顔で接し、怒った姿を見せてはいけない)――
 徹底して周囲との良好な関係性を築くことを訓示しているのだ。
 重時の念仏信仰を攻撃した日蓮も、重時の人柄については「極楽寺殿はいみしかりし人(重時は立派な人物)」と述懐していることからも、家訓はそのまま重時自身の生き様だったのだろう。

 面白くなくて、なにが悪い!重時の自負に満ちた叱責が聞こえそうだ。

 関連作品:京都にての歴史物語「人ニ称美セラレ

(2011/10/04)

<北条重時縁の地>

 ・六波羅探題北方を勅使門として移築したとされる。
  建仁寺⇒http://www.kenninji.jp/

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