「細川頼之」

 

 後年、絶大な権力を誇り幕政を強固なもとのし、日本国王を称して皇位の簒奪まで噂された足利義満だが、彼が将軍の職に就いたのは僅かに10歳の頃だった。しかも父である二代将軍足利義詮は政務を義満に譲った後、間もなく38歳の若さにして逝去し、国内は未だ北朝と南朝に分かれて果てもない戦を繰り返す状況だった。当然10歳の義満に、山積する問題の収拾を図れる実力は備わっていなかった。そこで死期迫った義詮が義満の後見として管領に任命したのが細川頼之という人物だった。この時、頼之は不惑一歩手前の39歳。
 貞治6年(1367)、死期が迫るのを自覚した義詮は、枕頭に嫡子でこの後の三代将軍足利義満と細川頼之を呼び、義満を指さして頼之に「われ今汝のために一子を与えん」と告げ、次に頼之を指さし義満に「汝のために一父を与えん。その教えにたがうなかれ」と告げたという。
 こうして頼之は未だ流動的な幕府体制の安定化と、後の権力者、足利義満という人物を作り上げるに重要な一翼を担うことになった。

 細川氏は足利氏とは同門の庶流であり、細川という名の由来は、三河国、現在の愛知県岡崎市に求められるという。
 後に足利尊氏が挙兵するにあたって宗家に従い、足利尊氏の台頭と共に細川氏も力を付けていく。特に細川頼春は足利尊氏に近侍し大きな信頼を得ていた。この頼春こそ、頼之の父親であり、頼之は頼春の長子として元徳元年(1329)三河国に生を受けた。
 頼之が歴史の表舞台に登場するのは22歳の頃。父の頼春に変わり細川家の分国阿波において大将として南朝方との戦いに戦果を挙げている。
 その後も南朝方との戦いに戦果を挙げていき、28歳にして足利尊氏の庶子にして南朝方の有力勢力であった足利直冬に対抗すべく中国地方に大将として派遣される。この当時、幕府の正式な役職であるかは不明とのことだが「中国管領」と呼称されていた資料が残っているという。
 それから10数年、中国地方でも確かな成果の残していた頼之は、ついに、上記したような経緯を以て管領職に任命された。

 管領に就任した頼之が最重要事項に掲げたのは、やはり幕府の安定化であったと思われる。その為には、まず南北朝統一が最優先事項となってくるだろう。南朝方の有力武将である楠木正儀を誘降したのも、その一手であったろう。そして何より、将軍家の権威昂揚が欠かせない。頼之は義満が成人に達するや、速やかに官位昇進を計った。後の巨人、足利義満はこうして作られていった。
 しかし、幕府の運営は困難を極めた。そもそも室町幕府が有力大名の微妙なバランスの上に成り立っており、管領たる頼之はその調停役として矢面に立たされることになり、一方を立てれば一方に恨まれ、一方を立てれば、また一方に疎まれるという、際限なく敵対勢力を生み出すという状況に置かれていった。
 そうして管領就任から13年後の康暦元年(1379)閏四4月14日、反管領細川頼之勢力である京極高秀・土岐直氏以下の諸将は、将軍足利義満が住まう花の御所を数万騎の軍勢により包囲し、頼之の追放を強要した。義満はこの状況の収拾を図る為に頼之の屋敷に使者を走らせ、京都からの退去を命じた。後に『康暦の政変』と呼ばれ、これにより頼之は失脚し、出家の上で阿波への下った。
 追い打ちをかけるように、頼之の後を継いで管領に任じられた斯波義将の強い注進により、頼之追討に消極的であった義満も、ついに頼之誅罰の御教書を下した。
 が、これに対して頼之は防衛を固めるどころか却って先制攻撃を仕掛けて幕府の機先を制し、追討軍の気勢を挫き、且つ巧みに幕府へ赦免を運動して、ついに追討令は解除せしめた。

 『康暦の政変』より12年後の明徳2年(1391)、斯波義将の管領職辞任に伴い、頼之は再び義満に上洛を命じられ、新たに管領に就任した頼之の末弟で養嫡子でもある頼元の後見として幕政に復帰した。
 復帰した後も山名氏による『明徳の乱』に従軍し功績を挙げるなど手腕を発揮した。
 そして幕政復帰の翌年、明徳3年(1392)3月2日、風邪をこじらしたのが原因で64年の生涯を閉じた。
 なお、同年に南北朝は統一に至っている。

 さて、上記のような略歴の持ち主である細川頼之だが、どの様な人物であったか。
 「優秀」という一言で片付けるのも申し訳ないが、まぁ、優秀に間違いないだろう。そして、その優秀さを本人も自覚していたのではないだろうか。
 28歳にして足利直冬討伐の大将を打診された際、頼之は闕所処分権を望んだ。闕所とは、つまり敵から奪った土地のことである。しかし、当時の将軍足利尊氏は幕府権限の不安定化にも繋がる為、これを許可しなかったところ、頼之は「なら、大将なんてやらない!」とは言わなかっただろうが、大任を固辞して阿波に帰ってしまおうとした。とりあえず同族の細川清氏の説得により翻意し、大任を引き受ける事となるのだが、その行動にあるのは子供っぽい我が儘か、それとも計算であったか――。結果として闕所処分権が与えられたかどうかは不明らしいが、頼之は大きな戦果を挙げることになる。戦局を少しでも有利に運ぶために、将軍尊氏相手に一芝居打ったような気がしてならない。
 そんな己の優れた才覚を自覚する頼之であったが、かといって自惚れることはなかったと思われる。
 権力に固執する者は、往々にして一度手に入れた権力を手放すまいと必死になりそうなものだが、管領に就任した頼之は管領を辞任する13年間の間に記録に残っているだけでも4度、自ら管領を辞去しようとしている。もちろん、その中には「計算」が働いているものもあるだろうが、一向に権力に固執する姿勢は見せなかった。

 『自惚れない自信家』という表現が、細川頼之という人にはぴったりのような気がする。

 そんな頼之の性格は、強く影響を受けた禅宗の影響でもあったのだろうか。
 幼少時に夢想疎石の法話に感銘を受けた頼之は、終生信仰を貫いた。
 『康暦の政変』にて阿波に下る際、頼之が読んだといわれる漢詩がある。

 人生五十愧無功『人生五十功なきを愧(に)ず』
 花木春過夏巳中『花木春過ぎて夏すでになかば』
 満室蒼蠅掃難尽『満室の蒼蠅掃へども尽し難し』
 去尋禅榻臥清風『去りて禅榻(とう)を尋ね清風に臥せん』

 そこには権力争いに生きるよりも、心豊かに生きたいと望む男の姿があるように思える。
 もちろん、優秀故に周囲は頼之を放って置かないし、頼之も終生遁世することはなかった。

 なお、頼之の養嫡子である頼元の子孫には、後の管領を務める細川勝元、政元がいる。
 また、後の熊本藩細川家の地盤を築いた細川藤孝、忠興親子は、頼之の弟である頼有の系譜に繋がる。

 関連作品:京都にての歴史物語「清風に臥せん

(2012/05/08)

<細川頼之縁の地>

 ・貞治6年(1367)細川頼之が創建。本堂に本尊延命安産地蔵菩薩を安置する。方丈前の枯山水庭園は「十六羅漢の庭」として有名で、また境内の竹林の美しさから、通称竹の寺と呼ばれている。
  地蔵院(竹の寺)

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