車折神社

「車折神社」

 

 車折神社といえば有名なのが摂社の芸能神社で、その周囲に留まらず境内の多くに並ぶ朱色の玉垣には多くの有名人の名が連なり、見る者のミーハー心理を駆り立てて止まない。
 また最近ではパワースポットとして紹介されることが多いようで、中でも『清めの社』と呼ばれる摂社は心身を浄化してくれるとして人気なのだとか。『清めの社』に参拝した後で社務所により『祈念神石』と呼ばれるパワーストーンが入った御守りを授受し、本殿に参拝することでより願い事が成就するのだとか。
 こうしてみると、なんだかとても華やかで前向きな印象を受ける車折神社なのだが、調べて行くと、どうも変な方向に妄想が膨らんでいってしまった。あくまで毎度の事の勝手な個人的妄想なのだが。。。

 とりあえず、一般的な車折神社のご由緒は以下の様になる。
 祭神は平安時代後期の儒学者で、大外記の職を24年間務めた清原頼業で、その学識は九条兼実から「その才、神というべく尊ぶべし」と称賛されるほどであったという。その死後、清原家の領地であった現在の社地に葬られ、廟が立てられた。
 それから後、後嵯峨天皇が大堰川御遊幸の際、社前を牛車にて通ろうとしたところ牛車の轅(ながえ)が折れたので「車折大明神」の御神号を賜ったことから、以後「車折神社」と呼ばれるようになったという。
 ご利益としては「約束を違えないこと」に霊験あらたかといわれ、一説には祭神である頼成の名に因み、金の「寄り(頼)」がよくなり、商いが「成り(業)」ということで、集金が滞りなく商売繁盛に繋がるとされ、商家からの信仰を集めたという。また、後嵯峨天皇が御神号を賜った伝承に付随して、その際に社前右側の石を「車折石」と呼んだという伝承から石への信仰が生まれ、境内にある小石(現在は『祈念神石』として社務所で授与)を待ちかえって祈念すれば願いが叶うとされた。ただし、願いが叶った場合にはお礼の石を社に奉納しなければいけないという。つまり、参拝者もまた約束を守らなければいけないようだ。
 神事としては、毎年5月の第3日曜日に嵐山の大堰川にて行われる「三船祭」が有名であり、多くの観光客が訪れる。

 さて、ここからは思いつきの妄想なので失笑半分に読んで頂ければ幸いだ。
 まず引っ掛かったのは、車折神社の地がかつて「五道冥官降臨の地」と呼ばれたという伝承があることだ。大辞泉によれば五道冥官とは「地獄で、五道の衆生(しゅじょう)の善悪を裁くという冥界の役人」とのこと。そんな役人がなぜこの地に降臨したという伝承が残っているのだろうか。ここで思い付いたのは「くるまさき」という音。つまりは「車裂き」になるのではないだろうか。単純な連想で浮かぶのは「車裂きの刑」という言葉。つまり、かつてこの地では善悪を裁いていたのではないだろうか。簡単に言えば刑場だったのではないだろうか。ただし、公式な刑として日本に車裂きの刑はなかった筈で(戦国期には「牛裂きの刑」は存在)、また平安期における死刑は嵯峨天皇により廃止され、それが保元・平治の乱まで続いたと考えられているので、刑場があったとするならばそれ以前か。とういうことになると、平安期以前に嵯峨野の地を治めていたのは秦氏などの渡来系である為、もしかしたら私刑として車裂きの刑が実施されていたのではないだろうか。その名残が平安期の地獄思想の流入と共に「五道冥官降臨の地」という伝承を残したのではないだろうか。
 現在の車折神社の拝殿前には願いが叶った参拝者がお礼の石を積む石台が設置されているのだが、その光景は見ようによっては賽の河原の様?まるで古の地獄を今に伝えているように。。。
 また、生前に頼業公が好んだ事により多くの桜が植えられ創建当初より「桜の宮」と呼ばれたという伝承も、当時の認識は知る術もないが、現在の感覚からしたらなんとも意味あり気で。桜の木の下には・・・なんとやら。。。

 そんないわくつきの地に(ここでは、そうしておく)に葬られた頼業公。その影響か、はたまた別の要因か、どうも怨霊になってしまったのではないだろうか。ご由緒に語られる後嵯峨天皇の牛車の轅が折れた云々の話。つまりこれは頼業公が後嵯峨天皇に祟ったと解釈してもおかしくないのではないだろうか。その祟りを恐れた後嵯峨天皇は御神号を賜った。
 京都には御霊神社や北野天満宮を始め、多くの祟り神が祀られている。一説によれば、怨霊を祀る社では川を挟んだり、参道を曲げるなどして怨霊が外にでられないような造りになっているのだという。その説に従えば、現在の車折神社の造りも面白いことになっている。まず境内にある中門は一般の人が通れないように常に門が閉まっている。車折神社のHPによれば「通り抜け禁止になっている理由は真正面からご神前に進む事は神様に対し畏敬の念を欠く行為であるからです」とのこと。まぁ、それはいい。しかし、上部写真にもあるように拝殿前に置かれた鳥居に関していうと、その下部を完全に塞いでしまっているのだ。これもまた「畏敬の念を欠く」からとも考えられるが、逆に言えば神をも鳥居を潜らせない処置ともいえないだろうか。閉じられた鳥居の本殿側には、返礼の石が感謝の言葉と共に積まれる。それはまるで、閉じ込めている神への慰めのように。
 では、なぜ頼業公は怨霊になってしまったのか?現在の「約束を違えないこと」というご利益から推測し、また祟った相手が後嵯峨天皇という鎌倉幕府に擁立された天皇だけに、鎌倉幕府との間にご利益の反対「約束を違えられた」という逸話や伝承あったら面白い、と不謹慎に思ってみたりしたのだが。。。残念ながら、いまいち怨霊というキーワードに繋がるような逸話を見付けることができなかった。死因についても明瞭な記述は見当たらず、期待した答えは得られぬまま・・・妄想終了。

 パワースポットとして有名な車折神社。そのパワーの源は、この地が『地獄』であった故か?
 授かる石は、子供の涙を吸い、鬼が踏みしめし賽の河原の石か?
 はたまた車折神社の御利益ありしは、頼業公の怨霊故か?

 信じるも信じないも、あなた次第!(なんて使い勝手の良い言葉。。。)

 ともあれ、芸能神社の玉垣に書かれた有名人の名前を見るだけでも楽しめる車折神社は、訪れて「何もなかった」とは思わせない、観光地としての強みがあるといえるだろう。ついでに話題の『パワー』も頂けたら、訪れた甲斐があったというもので。
 そういう意味では、嵐山も近いことだし、グループで訪れても文句の出にくい、旅行を計画する人に心強い一社であるかもしれない。

 関連作品:京都にての物語「戻りたいお社

(2012/06/17)

車折神社ホームページ⇒http://www.kurumazakijinja.or.jp/

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