「仏生寺弥助」

 

 幕末最強の剣士は誰だったのか?という議論になれば、喧々諤々の論争になるだろうが、その一候補として名が挙がるかもしれない男がいる。それが神道無念流の使い手、後に仏生寺流を称した、仏生寺弥助という男である。
 個人的な出会いは、津本陽さんの「修羅の剣」という作品。なんだこの強さは!と、小説なのを忘れて驚嘆したものだ。

 弥助は越中射水郡仏生寺村の出身で、同郷の先達として幕末江戸三大道場と呼ばれた神道無念流練兵館を開いた斉藤弥九郎がいた。その伝を辿り弥助は江戸へとやってくるが、最初から剣術の修行に入った訳ではなく、当初は風呂焚きなどをする雑役として練兵館に置かれていたが、道場の様子をよく覗く姿を見た神道無念流2代目で、練兵館の客分であった岡田十松利貞が斉藤弥九郎の許可を取って剣術を教えたところ、みるみると成長し、その実力は斉藤弥九郎の息子である、新太郎、歓之助兄弟を凌いだという。
 弥助の凄さを物語るのが、わかっていても避けられない左上段からの面打ちであったという。
 有名な話がある。当時肥前大村藩の剣術師範を勤めていた斉藤歓之助が他流試合で遅れをとり、弥助に助力を求めてきた。相手は当時中国随一ともいわれた宇野金太郎。早速弥助は西に向かい、歓之助に伴われ岩国の宇野道場を訪れた。そこで弥助は宇野と立ち会う。勝負は10本勝負。弥助は得意の左上段の構え。そして1本目、2本目、3本目と立て続けに、弥助は宇野の面をしたたかに打った。余りの強さに宇野は4本目を辞退し負けを認めたという。
 そんな強さを誇った弥助だが、後世に鮮烈な名を残すことはなかった。その理由として挙げられるのが、徹底した学問嫌い。弥助の将来を憂いた岡田十松や斉藤弥九郎は学問を強く勧めたらしいが「名前すら書ければいい」という趣旨の言葉を言って聞かなかったという。が、当時は剣術ばかりで渡っていける時節ではなく、結局塾頭はもちろんのこと、師範代にもなれなかった。

 無類の強さを誇った弥助だったが、その最後は、練兵館と縁の深かった長州藩が外国艦船と戦った馬関戦争に練兵館勇士組として参加後の帰途、もしくは長州藩に新規召し抱えになり上京した時ともいうが、京都にて闇討ちにあって没した。享年30余歳。
襲撃された理由としては、同門である新撰組の芹沢鴨と親しくなり、弥助の新撰組入隊を恐れた為とも、商家に借金を強要した為ともいわれ、その襲撃者の中には斉藤新太郎の姿があったといわれている。

 剣の強さだけが、後の世に弥助の名を残させた。
 それはきっと、弥助の強さが当時の人々に鮮烈な印象を残していた為だろう。
 幕末最強の剣士。その候補としての資格は充分に有しているだろう。

 関連作品:京都にての歴史物語「見えずの刀

(2012/12/30)

<仏生寺弥助縁の地>

 ・弥助は新撰組に入隊しようとしていたともいわれる。
  壬生寺ホームページ⇒http://www.mibudera.com/

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