伏見稲荷大社

「伏見稲荷大社」

 

 稲荷社は全国に三万社を越えるともいわれ、末社の数は日本で最も多いといわれている。確かに道を歩いていると、小さな祠があり、なんの祠かな?と確認してみると、稲荷社のシンボルである、朱い鳥居と白い狐をちゃんと備えていたりするので、ああ稲荷社か、とわかったりする。
 どうしてそんなに多くなったかといえば、産業全般の神様というご利益の性質上、企業や個人が祀ることが多かったようだ。
 そんな日本有数の社の本宮こそが、京都市伏見区にある伏見稲荷大社だ。

 創建は和銅4年(711)と言われている。平城京遷都が納豆(西暦710年)ネバネバの年なので、その翌年というから、鶯が鳴く(よ)平安京よりも歴史が長い。
 由緒について『山城国風土記逸文』によれば、秦伊侶巨(具)という者は稲を積み上げる程の裕福な者であったが、ある時餅を的に矢を射た。すると、その餅の的が白鳥となり、飛び去ってしまった。その白鳥が降り立った地に稲が生ったので、その地を『イネナリ』と命名し祀ったという。つまり、『稲荷=イナリ』は元々『イネナリ』から転訛したものと考えられる。
 現在では産業全般の神様として多彩なご利益を与えてくれる稲荷神だが、実は、元々は農耕専門の神様だった訳だ。現に稲荷社の主神である宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)は、日本神話では穀物の神とされている。

 ところで、稲荷神の神使(眷属)は狐とされ、シンボルの一つである白い狐として表現されているが、どうして狐なのだろうか。一説によれば、上記した主神の宇迦之御魂神は別名を御饌津神(みけつのかみ)といい、狐が古くは『ケツ』と呼ばれていたことから『みけつのかみ』⇒『三狐神』という字を充てたのが始まりといわれる。
 では、なぜ白い狐として表現されるのか。伏見稲荷大社のHPによれば『眷属様も大神様同様に我々の目には見えません。そのため白(透明)狐=“びゃっこさん”といってあがめます』とのこと。
 ちなみに、狐といえば油揚げ。油揚げで包んだ寿司を、いなり寿司という。その関係は?というと、一説によれば狐を通じて稲荷神は仏教の荼枳尼(ダキニ)天と同一視されていた。日本において荼枳尼天は狐に跨った姿で表現されていたからだ。その荼枳尼天は、元を辿ればヒンドゥー教の神様で、戦いの女神カーリーの眷属という位置付けで、血肉を食らう女神としての性格が当てられていた。そんなダキニへの一般的な供え物が鼠のフライだったといわれ、ダキニが仏教に取り込まれるにあたり、供え物が殺生にあたる鼠のフライから、大豆を揚げたものに変わったという。それがいつしか日本に伝わり、やがて狐といえば油揚げ、となったという。

 さて、祀られた当初は秦氏(深草地域の)の氏神でしかなかった農耕神に、やがて転機が訪れる。天長4年(827)頃、当時の今上帝であった淳和天皇を祟ったのだ。その頃、淳和天皇の体調がどうも優れない。それで占ってみたところ、稲荷神の祟りという結果が出たというのだ。原因は、東寺を建立する為の木材として稲荷社の木を伐った為だという。これに畏敬した淳和天皇は稲荷神に従五位下の神階を授けた。これにより稲荷神は一氏族の氏神より、一躍朝廷も認める存在となったのである。
 以降、朝廷はもとより庶民からの信仰を集めるようになった稲荷社は、祇園社と京都の住人を二分する氏人を要するようになった。また中世に入り産業が盛んになると、農耕専門の枠を飛び越えて、今に至る様々な信仰を受けるようになった。

 『稲荷社の信仰』というと、一つ特徴的な習わしがある。それが『験(しるし)の杉』と呼ばれるものだ。簡単にいうと、稲荷山の杉の枝を折り身に着けて置いて、しばしの間枯れなければ願いが成就するという。御守りというか、吉兆占いとでもいうか。
 この習わしも『山城国風土記逸文』に書かれた由緒に関係するもの考えられ、上記したように白鳥が降り立った稲荷山に社を建て祀った秦一族だったが、その後山の木を抜き家に植えて祈祭した。「その木蘇(いき)れば殖することを得、その木枯れれば福あらず」とあり、験の杉の習わしと一致する。
 この習わしはすでに平安の頃より広く浸透していたようで、平治の乱の折には、熊野詣でから急遽戻った平清盛が、緊急時にも関わらず稲荷社に立ち寄り、杉の枝を折って鎧に差し込んでから六波羅に戻ったと伝わる。
 現在では、勝手に山の杉の枝を折ることは当然いけません。その代り、毎年の初午の日に行われる初午大祭(鎮座したのが初午の日だったとされる為)の折に、社頭にて験の杉が授与されるので、興味のある方はこの日にどうぞ。

 上記してきたように秦一族によって祀られた稲荷山だが、社殿は元々稲荷山山頂にあったといわれ、上中下の三社に分かれていたという。『枕草子』の中で清少納言が初午参りの際の様子として、日頃宮仕えをして運動不足だった為か「中ノ社辺りで疲れ果ててしまったと」と嘆いている辺りからも窺い知ることができる。
 ところが応仁2年(1468)3月、京都の街を灰燼に帰した応仁の乱が勃発すると、要衝の拠点として稲荷山にも軍勢が入り戦場となって、多分に漏れず社殿は灰燼と帰してしまった。
 明応8年(1499)に至り、ようやく本格的な社殿の復興が始まったが、それまでのように三社に分けずに下社があった敷地のみに社殿が建て直された。これが現在に至る本殿で、以降はこの本殿にそれぞれの社で祀られていた主要五神が相殿で祀られている。

 以上のような、長い歴史と複雑な成り立ちを経てきた伏見稲荷大社だが、現在訪れての見どころは、なんといっても千本鳥居に代表される稲荷山全体に伸びる鳥居の参道だろう。深い木々の中、鮮やかな朱色が映える鳥居の回廊は、非日常的な幻想感を良く演出している。
 では、なぜ稲荷社にはこれだけ多くの鳥居が奉納されているかというと、奉納が盛んになったのは江戸時代以降といわれ、伏見稲荷大社HPによれば『願い事が「通る」或いは「通った」御礼の意味』ということだ。
 ということは、鳥居を通ってなんぼの伏見稲荷大社。
 本殿の裏手へ回り、千本鳥居を抜けて命婦稲荷へ。そこから更に稲荷山山頂へ向けて登って行くとなると、ちょっとしたハイキングとなってくるが、どこまでも続く鳥居の回廊は特別な信仰心がなくても敬虔な気持ちになってしまう。そんな敬虔な気持ちになったところで稲荷山山頂、山中から望む見晴らしの良い光景は、疲れた体にもとても沁み込み、しばし、ぼーっとしていたくなってしまう。
 少々運動不足には応えるが、せっかく伏見稲荷大社を訪れたならば、そんな景色をを楽しんでみるのもいいかもしれない。

 関連作品:京都にての物語「女神の微笑み

(2013/05/17)

伏見稲荷大社ホームページ⇒http://inari.jp/

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