「三宝院満済」

 

 『黒衣の宰相』というと、江戸時代初期に徳川家康に仕えた南光坊天海と金地院崇伝を思い浮かべるが、室町時代にもその様に呼ばれた僧侶がいた。その名を三宝院満済。
 そもそも『黒衣の宰相』の意味を辞書で引いてみると、
「僧でありながら主君を補佐し政治に関与するもの」――大辞林より
 とある。
 三宝院満済は足利義満から義持、義教に至る3代の室町将軍の側近として仕え、特に義持、義教の代に大きな政治的影響力を発揮した。

 満済は永和4年(1378)に、二条家の分流である今小路基冬の子として生まれた。後に兄の師冬の養子になったと考えられるようだ。
 更に満済は幼少にして足利義満の猶子となった。猶子とは仮の親子関係を結ぶことで、義満の猶子になった満済は醍醐寺の三宝院に入室した。
 義満に寵愛された満済は、応永2年(1395)に弱冠18歳にして三宝院門跡、及び醍醐寺座主の座に就いた。
 応永15年(1408)に足利義満が没すると、足利義持の護持僧となった。護持僧とは本来天皇に仕え、祈祷による呪力によって邪気を払い天皇の安泰を計る、主として天台・真言両宗の僧侶の事を言ったが、満済は将軍の安泰を保つ護持僧の1人に任命された。
 翌年には真言宗のトップである東寺の一の長者に就任し、更に後小松天皇の護持僧にも任命され、弱冠32歳にして仏教界に大きな影響力を手にした。
 応永30年(1423)には幕府と対峙する鎌倉公方への対処に関する幕府の重臣会議に出席するなど、この頃より幕府政治への関与を示し始める。
 応永35年(1428)、義持の逝去に伴い足利義教が将軍に就任すると、満済の政治への関与は決定的となる。そもそも義教は将軍に就任するまで義円と名乗り僧籍にあり、これを還俗させ、元服させ、将軍就任へ至る道には多くの問題があった。この諸問題を満済は陣頭に立って対処していかなければならなかった。自ずと義教の満済へ対する信頼は増し、その礼としてであろう、義教の執奏により、同年に満済は准后に補された。准后とは太皇太后・皇太后・皇后の三后に准ずるの意で、格別の待遇であり満済は「歓喜と感涙千万」などと喜びを露わにした。
 翌年、永享元年(1429)に四天王寺検校(別当)に任じられる。
 義教の信任厚い満済は、護持僧を取り仕切る護持管領となり、また幕府政治においても将軍と有力大名との間を取り持つ調停者として重要な役割を担った。この様な政治との深い関わりが、周囲をして満済を『黒衣の宰相』と言わしめたのだろう。
 永享7年(1435)、満済は58歳で没した。満済を失った義教は「殊に御周章(周章=あわてふためくこと。うろたえること。――大辞林より)」であったという。

 さて、以上が三宝院満済の略歴となるが、満済をして最も強烈に『黒衣の宰相』を匂わせる出来事は、なんといっても義持の継嗣を決める籤引きだろう。
 応永35年、にわかに発病した義持は重篤に陥ってしまう。そこで問題となったのが継嗣問題だ。
 義持には義量という嫡子があって応永30年に将軍職を譲っていたが、応永三32年、在位2年を経ずして義量は夭折してしまった為、以降将軍位は空位のまま、足利氏の継嗣も決まっていなかった。
 義持が継嗣を定めなかったのは、男子出生の占い結果があり、それを信じていた為とも伝わり、重臣達の合議よって決めれば良いと頑なに継嗣の指名を拒んでいた。
 一方の重臣は重臣で、どうしても義持に決めて欲しいと再三嘆願した。
 両者の間に立って調整を行っていたのが満済だった。やがて満済は「継嗣を籤引きで決める」という案を義持に提示し了承された。
 籤引きの手順は以下の通り。
 ①義持の4人の弟の名を満済が紙に書く。
 ②幕府宿老の山名時煕が封をし花押を記す。
 ③管領の畠山満家が源氏の氏神である石清水八幡宮の社前にて籤を引く。
 以上の手順を踏み、結果として義円、後の六代将軍足利義教の継嗣指名が決定されたのだが、この籤引きは仕組まれていたものではないかという説が根強い。
 なるほど、3人の幕府有力者が不正がないよう役割分担を行っているが、逆に言えばこの3人さえ結託していれば籤の結果など自由に操れるというものだろう。それを主導したのが、満済ではないかと目されているのだ。
 上記したように、義教が継嗣に決定した同年に満済は義教の執奏により准后に補されている。これを、いかさま籤を仕組んだ満済への褒美と捉えることもできるからだ。
 それと現実問題として、本当に将軍を籤で決めてしまえるものなのだろうか。信仰心の厚かった当時の事としても、思うような人選でなかった場合、幕府運営に支障はなかったのだろうか。それを、重臣達は危惧しなかったのだろうか。
 義教が将軍に就任した後年、義持時代に没収し神社に寄進していた土地を元の持ち主に返すことになったのだが、その返し方が問題となった。一度神領となったものを取り返すことが憚られた為だ。ここで満済は「折中の御沙汰」として、名目は神領のまま土地の実質支配は元の持ち主に委ね、その上で『神用』を納めさせるよう提案した。実に現実的な折衷案を提案したのである。満済は僧侶であったが、政治には極端な神仏論を持ち込まなかった。
 そういう満済の政治姿勢を鑑みた時、幕府にとって最重要である将軍継嗣の問題を純粋に神慮に委ねようとしたとは考えにくいのではないだろうか。幕府安定の最良を考えるのであれば、義持の指名が得られない以上、籤という手法を取り入れることによって『神慮を得た将軍』という箔付を意図したのではないだろうか。
 籤引きが仕組まれたものであったか、それとも正当なものであったが、今となってはどちらの確証もない。真実は歴史の闇の中。ただ結果として、満済が僧籍における最高の栄達をしたのは事実といえるだろう。

 『黒衣の宰相』というと、どうもイメージが良くない。僧侶にも関わらず、権力欲に塗れた人物。そんな姿を想像してしまう。
 けれど、満済が遺した当時の一級資料でもある『満済准后日記』には、そんな様子は記されていないようだ。もちろん、自分が遺す日記が自己の死後い他者の目に触れることも計算されて書かれていたとは思われるが、それでも満済の願いは「天下泰平・万民快楽・室町殿御運長久」であったようだ。
 伏見宮貞成親王(後の後崇光院)は満済を『天下の義者』と称した。
 三宝院満済は権力を振りかざす『黒衣の宰相』というよりも、調停者として手腕を発揮した『天下の義者』であったようだ。

 関連作品:京都にての歴史物語「籤引き将軍

(2015/01/27)

<縁の地>

 ・満済が門跡を勤めた
  醍醐寺三宝院

 ・満済が一の長者を勤めた
  教王護国寺(東寺)

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