八坂神社
~厄男落とし~
<登場人物>
・香西真由(コウザイマユ)・山下香織(ヤマシタカオリ)
東大路を北上すると、やがて朱に彩った鮮やかな西楼門が見えてきた。
大きな石柱には雄々しく『八坂神社』とあり、傍らでは、あまりにも有名な石段が人々を境内へと導いていた。
その光景に、山下香織は殊更大袈裟に感嘆の声を上げ、
「おお、見たことあるぅ」
弾むように走り、斜め四十五度の角度から、さっそく携帯のレンズを西楼門に向けていた。
残された香西真由は、歩を止めた。そして忌むように、上目がちに西楼門を見上げる。
――香西、俺――
記憶が甦り、悲しいことに、今でも胸が詰まった。
「どお、ナイスショットでしょ?」
撮ったばかりの写真を、香織は早速、真由に見せる。
真由は無理矢理に笑顔を作って携帯を覗き込んだ。
「でも、人ばっかり写ってるね」
「・・・そうなんだよねぇ。邪魔なんだよねぇ。写真撮りますんでどいてください!って、どいて貰っちゃおうか?」
「そんなの止めてよ、恥ずかしい」
「だって、せっかく来たんだから、いい写真撮りたいじゃない」
有名観光スポットだけあって、石段を行く人通りは絶えない。この状況で人の姿を写さずに西楼門を写真に納めるのは困難だ。
香織は未練がましく携帯を片手に様子を窺うが、諦めてズボンのポケットに携帯をしまった。
「さっ、いこうか」
「香織だけ行ってきていいよ。私はここで待ってる」
「なに言ってんの。ほら、歩く、歩く」
四条通に面している為に車の交通量も多く、騒々しい音の氾濫を背に、香織は真由の腕を取って石段を登った。
門を潜れば、雰囲気は一気に神域へと変わる。大樹の葉が日の光を遮り、薄暗さの中に鳥居が立つ姿は、街中に生活基盤を置く者にとっては、日常にない特異な風景だった。
八坂神社の起源は、平安遷都の150年前とも云われ、素戔嗚尊を祭り、7月には余りにも有名な祇園祭が行われる歴史ある社だ。
二人は摂社を覗きながら参道を歩き、左手に本殿の姿を拝する。
「おっきいねぇ」
香織は再び携帯を構え、距離が遠かったようで小走りに本殿に近付き、その姿を写真に納めた。
「なかなかでしょう?」
と戻って成果を真由に報告し、携帯を鞄に入れると、
「例の場所に行きますか」
と、真由を促した。
「どこ?」
「例の場所だよ、例の」
有無を言わせずに、香織は真由を引っ張り、参拝もせずに本殿の横を通り、本殿の裏手へと出た。本殿前とは違って人の姿も疎らになった。
香織に引かれ階段を下りた真由だったが、その風景を見るや、香織の腕を力任せに振り解いた。
「嫌!」
俯き、目を閉じる。
けれど、瞬間的に眼にした風景は脳裏に焼き付き、その焼き付いた風景の中に記憶の幻影が重なり合って、ある日の光景をまざまざと再現させた。
――あれも、秋の頃。
真由は紺のブレザーの制服姿で。その正面に立つ国近涼司も、同じ高校の制服姿で。
二人は俯き加減に、必死にその場に立つ恥ずかしさを隠そうとしているようだった。
真由の後ろには、同じ制服を着た数人の女子が。涼司の後ろにも同じ制服の数人の男子が。皆それぞれに、好奇心に満ち溢れた表情、視線で二人の成り行きを眺めていた。
丁度、厳島社の前。
「香西、俺、お前の事が好きなんだ。付き合ってくれないか?」
意を決したように、涼司は堂々と告げた。真由を痛いほどに見詰める。
真由は嬉しかった。そして、真由も涼司の事が好きだった。
「はい」
今まで生きてきた中で、この一言ほど、瞬くほどに輝きに満ちた言葉があっただろうか。
それぞれの友人が二人を囃し立てる。
恥ずかしさの中、真由と涼司は恋心を結んだ。
あらから3年。先月、真由と涼司は別れた。涼司からの一方的な別れだった。けれど、予感はなくもなかった。
だから今は、この場所に来たくはなかった。八坂神社には来たくなかった。京都にも来たくなかった。ただ、香織がどうしてもと誘うから、断るのが忍びなかった。
真由は逃げるように腰から後退りする。
けれど、その真由の腕を香織が再び捕まえる。
「駄目。いいから行くの。場所はそこでいいの?」
体は真由の方が大きかったが、今の香織は力強かった。真由が弱気になっている所為もあるかもしれないが、とにかく香織の引く力は強かった。
「この辺り?」
厳島社の前。3年前と一つも変わってはいなかった。懐かしさが呼び水となって、抑えられないばかりの悲しみが満ち満ちた。
「よし!」
真由の気持ちとは裏腹に、香織は気合のような声を上げると、真由の前に両手を広げた。
「さぁ、真由、我慢しないで私の腕の中で思いっきり泣きなさい!」
と、背伸びをして真由の頭を強引に抱え込んだ。
真由はその行動に驚いたが、その驚き故に、それまで悲しみの氾濫を抑えてきた理性に僅かな綻びが生じ、亀裂が生じ、嗚咽と共にどっと涙が溢れ出した。香織の胸にしがみ付き、声を上げて泣きじゃくる。周りの事なんか気にならない。とにかく悲しくて、悲しくて、悲しくて――
ほんの僅かな時間だが、真由は涼司と過ごした日々の長さを辿り、我を忘れて泣いた。ひとしきり声をあげ、涙を流した。
「どうしたの?大丈夫?」
という、年配の女性の心配そうな声に、ようやく真由は我に帰る。
涙で眼がぼやけ、思わずコートの袖で目元を拭うが、周りがよく見えない。
「大丈夫ですから」
頭上を香織の声が飛ぶ。
ハンカチを鞄から取り出し、改めて目元を拭う。少し止まっていた人の足音が遠ざかるのを待って、真由はようやく顔を上げた。
「ごめん」
「うんん。やっと私の前で泣いてくれたね」
「え?」
香織の意外な言葉に、真由は香織の顔を見詰めた。
「だって、真由、いつも人の前ではなんでもかんでも我慢しちゃうでしょ?今回の国近君の事にしたって、私の前でさえ我慢してるし。だから、私の前で泣かしてやるって思ってさ。ちょっと、意地悪だったね。ごめんね」
香織の笑顔が、とても優しさに満ちていた。だから真由は、また涙を浮かべて口元をハンカチで押さえた。先程とは少しだけ色彩の異なる感情が込み上げる。
「知ってる?この八坂神社に祭られている素戔嗚尊は、そもそもが禍をもたらす厄神なんだって。けど、礼を尽くす事によって、厄を払ってもくれるの。きっと高校生の頃だから、ちゃんとお参りをしなかったんでしょ?だから厄が憑いちゃったんだよ。や・く・お・と・こ・が」
「厄男?」
「そうそう、厄男。厄そのものだったんだよ、あの男は。だから、悲しむなかれ、お嬢さん。こうして厄が除かれた今、あなたを待っているのは大きな幸せだよ。まぁ、具体的にはわからないけどね」
苦笑いを浮かべた香織の言葉一つ一つには励ましのエネルギーが含まれていて、その言葉に触れた真由は、自分でも不思議なぐらいに気が晴れていくのを感じた。
ハンカチでもう一度目元を拭い、眼をしばたかせる。赤い眼を香織に向け、真由は心より感謝した。
「ありがとうね」
「少しは気分が楽になった?」
「うん」
「よかった。じゃあ、今度は変な厄を憑けられないように、ちゃんとお参りをしてから、抹茶パフェを食べに行こう!ほら、真由、早く」
早速香織は駆け出していた。
真由はようやく自分の顔がどうなっているのか気になったが、
「待ってよ」
香織の後を追って、自然と新たな一歩を踏み出した。
高い秋の青空の頂点に、太陽は輝いていた。
「でも香織」
「なに?」
「彼は厄男じゃなかったよ」
真由は微笑んだ。