源光庵

~悟りと迷いの窓~

<登場人物>
・平木義之(ひらきよしゆき)・藤吉琢郎・智子(ふじよしたくろう・ともこ)

 

 四条大宮より市バス6系統玄琢行に乗り一路北へ。
 空席の多い車内には、ジーンズ履きの膝の上に乗せた黒のリュックを抱えるように座り、車外を眺める若い男性が一人。その近くの二人掛けの椅子にはまるで登山にも行けそうな動きやすい格好をした老夫婦が座り、頻繁に奥さんが旦那に話し掛けていた。最後尾には若い夫婦と小さな女の子が一人。女の子はじっとしていることができないように座席から降りては母親の膝を揺すって一生懸命に話し掛けていた。
 それらの人々を乗せ、バスはやがて源光庵前停留所へ。バスを降りて西側に少し戻るように歩くと、右手に源光庵の入り口がある。
 源光庵は北区鷹峯にある曹洞宗寺院。創建は貞和2年(1346年)で元々は臨済宗であったが、元禄7年(1694)に卍山禅師が住持し曹洞宗に改められた。見所は庭園と、本堂内の血天井。血天井とは関ヶ原の合戦前夜落城した伏見城の遺構で、供養として天井板として張られたそこかしこには、自刃して果てた徳川家家臣、鳥居元忠一党の血が今もはっきりと滲んでいた。そして源光庵のなによりの見所は、禅寺らしく『悟りの窓』と『迷いの窓』と銘打たれた異なる形の二つの窓。

 初夏の陽射しを浴びて平木義之は黒のリュックを背負い直し、源光庵の門を潜った。本堂前庭の緑が眩しく輝くのを左手に見ながら歩き、本堂右手にある建物で拝観料を払って靴を脱いで上がった。廊下をそのまま直線すればその先に北山を借景とした枯山水庭園があり、紅葉の頃には多くの人を集めるが、義之はそちらには回らずに廊下途中にある左手の道を辿って直接本堂内に入った。
 中央に須弥壇が置かれた畳敷きの本堂。中には周辺を数人の拝観者の姿があった。
 入ってすぐ右手に、手前から障子開きの正方形の窓。その上部には格子が嵌め込まれ、そこからも外の景色を望むことができる『迷いの窓』。柱を挟んだ左隣に白壁に突然穿たれた円形の窓。輪郭を黒塗りの縁で強調した『悟りの窓』。義之は『迷いの窓』には目もくれずに『悟りの窓』の前に立つ。それぞれの窓の前には距離を置いて薄茶色の竹が置かれ、そこからの進入を戒めていた。義之は置かれた竹のぎりぎりに座り込み、窓を凝視した。
 義之は高校生の頃に修学旅行で源光庵を訪れ、今と同じようにこの『悟りの窓』の前に座ったことがあった。最初はなんの気なしに友達に合わせて座ったのだが、眺めたら眺めたで義之なりに感じるものがあった。当時、義之は進路について迷いがあった。両親は大学への進学を勧めていたが、義之には料理への興味が芽生え調理師学校へ進む道を模索し始めていた。親の意向も自分の将来を心配してのこととわかるだけに無下にはしたくなく、それでも自分の気持ちもあり――
 義之が『悟りの窓』に見出したもの。それは目標に向かって延びる一本の道筋であった。無駄な物がない。余計なことを考える必要はない。円形に込められた、たった一つの真実。それはシンプルな追求心。義之は自分の意志を優先させることを決意し、その決意通りに両親を説得して高校卒業後は調理師学校へと進んだ。
 それから三年。無事に調理師免許を取得した義之はとあるレストランに就職し今も厨房で悪戦苦闘している。そんな義之に知り合いを通じて海外の料理店からの誘いの声が掛かった。義之は自分を成長させるチャンスと捉える一方で、言葉の壁、文化風習の違い、己の調理技術が通用するか云々、様々なる不安がのしかかってきた。そもそも義之は飛び抜けた行動家ではない。踏み出す一歩にはいつも不安が絡み付いてくる。その絡み付いてくるものをどうにか振り解いて歩みを進めているが、今回の束縛はなかなかに厳しい。そこで義之が己を鼓舞する為に助力を願った存在こそ、調理師の道を決意させた『悟りの窓』だった。
 『悟りの窓』と対峙する義之。そこに見出したのは――
「ああ、やっぱり変らない」
 義之は高校の頃に見た景色と同じものを見ていた。義之にとっての変らぬ真実がそこにあった。

 藤吉琢郎は妻の智子と縁側に並んで座り、本堂裏手にある枯山水庭園を眺めていた。紅葉の頃が美しいらしいと智子は言うが、琢郎にとっては新緑の輝きもまた美しいと思えた。
「ほら見て、あそこに水が溜まってる。これじゃ枯山水じゃなくなっちゃうわね」
 昨日は雨だった。その名残が右手の亀石手前の窪みに残っていた。
 それにしても我が妻はよく話す。だいたいこういう場所では静かに心に染み込ませるように鑑賞するものだが、手当たり次第に吐き出してしまっている。これで一体妻の心にはなにが残るのだと琢郎は疑問に思ってしまうが、かといって苦言しようとは思わない。妻の多弁は今に始まったことではなく、これに救われる時もままある。どうしても嫌なら自分が少し離れればいい。
「ちょっと先に本堂を見てくるわ」
「私も行きますよ」
「血天井は気味が悪いって言ってたじゃないか。だから先に行っておくよ」
 智子を残して琢郎は立ち上がり本堂に続く廊下を歩き出した。それにしても少々暑い。クーラー冷えしないようにと智子の忠言でTシャツの上にベストを着ているが、ここでは心配なさそうだ。歩きながらベストを脱いで左手に持ち、右手には白地の扇子を取り出してゆっくりと扇いだ。
 本堂に入ると右手に四角の窓と円形の窓が開いていた。拝観料を支払った時に貰ったパンフレットをベストのポケットから取り出し見る。これが『迷いの窓』と『悟りの窓』か、と二度ほど頷く。
 『悟りの窓』の前に座っていた若い男性が黒のリュックを手に立ち上がった。その表情はどこかしら充実し、立ち上がってからも数秒窓を見詰めていたが、やがて視線を切ると本堂の奥へと進んでいった。
 男性が去った場所に琢郎は立ち『悟りの窓』を眺める。白壁に開いた円形の窓。琢郎はその姿に白々しいものを感じた。なんというか、とても意図的というか。そもそも円という形状は見る者に洗練された印象を与える。その印象とは無駄の排除であり、残された純粋さ――つまりはそれが『悟り』という発見に繋がる訳だ。その為にご丁寧にも窓の縁は黒く印象付けられ、一層の集中を促している。もちろん円が表わすのはそればかりではなく禅でいうところの『無』を表わす形状なのだろうが、視覚的にこの『悟りの窓』から見出せるものは純粋さを再発見させようという明らかなる意図だ。
 果たして、純粋な想いだけが尊いのだろうか。無駄なモノの中には一片の真理も存在しないのだろうか。
 琢郎は『迷いの窓』の前に移動し、立ち尽くして眺める。
――ああ、迷いこそ人生だ。
 琢郎の人生は、仕事一本に生きた人生だった。営業畑に生きて、多くの仕事を成し遂げた。子供も大きくし、それぞれ独立した。けれど定年後に待っていたのは無為の時間の流れでしかなかった。目標に向かって邁進した日々が過ぎ去った時、そこには目標を失った抜け殻だけが残った。目標なき人生には迷いがとめどなく湧きいずる。最初琢郎はその処置に困った。新たな目標を掲げなければ己はこの先生きてはいけないと思えた。だが、琢郎はその状況にいつまでも慌てふためくほど若くはなかった。培ってきた人生の経験が、発想の転換を導いた。
 迷いがあってこその人生ではなかろうか。迷いなき人生とは、それは欺瞞でしかない。
 琢郎が『悟りの窓』に見出した白々さとは、いつかは目標とした道を失う時がくることを知る琢郎の経験であり、その経験から導き出された答えは『迷いの窓』こそ、琢郎にとっての『悟りの窓』という解釈であった。迷いを受け入れることこそ琢郎の悟り。
 『迷いの窓』の前に座り込んだ琢郎の目には『悟りの窓』から眺めるのと同じ美しい庭の緑が映っていた。
「これが『悟りの窓』と『迷いの窓』ね。どれどれ、私は悟れるかしら?」
 やがて琢郎を追いかけて本堂に入ってきた智子は『迷いの窓』の前に座る琢郎の後ろを通り過ぎると、早速『悟りの窓』の前に座り込み、あれやこれやと解釈を始めた。琢郎は己の想いなど口には出さず、智子の隣に座り直し楽しげに聴講していた。
 と、本堂入り口の方から、
「こら妙、大人しくしなさい!」
 という女性の声が響くのを背に、一人の小さな女の子が笑顔を振り撒いて本堂に駆け込んでくるのを老夫婦は見て、微笑ましく顔を綻ばせた。

 母親の叱り声をもろともせずに桑原妙は二つに括った長い黒髪を靡かせて本堂に走り込んだ。その目に飛び込んできたのは四角と丸い窓。それらの窓からは緑溢れる庭が眺められ、妙は竹の敷居など気付かずに、まず四角い窓に走りよって嬉しそうに顔を窓から突き出した。それから左に走って丸い窓からも顔を出して外を眺める。
 振り返った妙は本堂の入り口に両親の姿を見付けると、
「ママぁ~、お庭、綺麗だよぉ!」
 とても嬉しげに報告した。

(2010/07/11)

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