北野天満宮

~学問の神様へ~

<登場人物>
・安田国隆(やすだくにたか)

 

 タクシーが止まるのを待って、
「それじゃ、少し待っていてください」
 運転手に告げて、安田国隆は急いで車外に出た。
 9月だというのに容赦ない陽射しが国隆に照りつける。クーラーの効いた車内から飛び出した身に、纏わりつくような大気の熱が否応なく襲い掛かる。隆国はこの暑さに歩を進める少しの躊躇いを覚えたが、ここまできて止めるというのもそれこそ無駄な労力と自らを鼓舞し、極力早くタクシーに戻ってこようと足早に北野天満宮一の鳥居を潜って参道を境内へと足早に入っていった。
 北野天満宮は平安期の学者であり官僚でもあった菅原道真を祀る社として有名で、なによりも学問成就祈願の社として特に有名だ。国隆もそのご利益を期待し、北野天満宮を訪れた一人である。
 といっても、40も半ばを迎えたサラリーマンの国隆が合格祈願を願うのは自らの為ではなく、大学受験を控えた愛娘の為であった。受験生の子供を持つ父親としてなにができるかを考えた時、仕事の関係で京都を訪れた国隆は北野天満宮への合格祈願、それと御守りの購入を思い付いたのだった。こんな父親の思いやりにさぞや娘も喜ぶだろう。国隆はそう確信しサプライズなお土産として娘は元より、妻にも内緒の参拝だった。
 陽射しを受けて白く輝く石畳の、やや右手に湾曲する参道を進むと、黒っぽい姿の楼門が見えてきた。楼門に近付き試しにその左右を覗いて見ると、弓を携えた狩衣姿の阿吽の武士がそれぞれに控えていた。
 楼門を潜り国隆が見た光景は、更に続く石畳だった。初めて北野天満宮を訪れた国隆は一般的な神社の構造として楼門を潜ればその正面に拝殿や本殿があると思っていたのだが、どうやら北野天満宮は違うらしい。案内板に本殿は左手と矢印が示しており、それに従って左手の石畳を辿った。
 辿る石畳は更に右折すると、正面に三光門と呼ばれる中門を望み、手前には参道の左右に向かい合ってそれぞれ2つの社と、天満宮の象徴でもある臥牛像の姿があった。歩を進めた国隆は中門を見上げる位置に立つ。黒き姿は上空の青空との対比でとても重々しく、けれど金字で額に大書された『天満宮』の文字は非常に鮮やかに見えた。
 中門を潜ると、いよいよ本殿に辿り着く。周囲は回廊で囲まれ、本殿に向かって右手には目的のお守りを販売している授与所があった。けれど、まずは祈願するのが先だろうと本殿前、正確には拝殿前に立った。お賽銭の為に財布を取り出す――さて、ここで困った。どれほどの金額を投じるべきだろうか。国隆は今まで百円を越えるお賽銭を投じたことがなかった。大体小銭が相場だろうという先入観がある。が、この場合それでいいのだろうか。可愛い娘の合格祈願。小銭ではケチではないだろうか。そんなケチな父親でいいのだろうか。国隆は空けていた小銭入れの口を閉じ、お札が入った口を開く。この不況のご時世、給料はやや右下がり。こずかいに至ってはもっと右下がり。
 1万円――それは勘弁して欲しい。
 5千円――痛いなぁ。
 2千円――札でもあればいってもよかったけどなぁ、残念だなぁ、ないんだなぁ。
 千円――かな、やっぱり。
 それでも惜しそう千円札を抜くと財布をしまい、拝殿前に掛かる鈴緒を振って鈴を鳴らし、これでどうだ!と言わんばかりに国隆にとっては大盤振る舞いの千円札を賽銭箱に投じた。
 二礼、二拍手――そのまま手を合わせ、瞑目して愛娘の志望大学への合格をひたすら祈願する。最後に一礼。
「よしっ!」
 使命の達成感から思わず声が出た。流す汗も今や己の労力を誇るが如くで心地よい。
 軽い足取りで授与所に向かい、御守りを探す。赤色の御守りに決めた。決めたのはいいが、なんだか物足りないような気持ちが湧いた。なにかこう、もっと愛娘の為にこの北野天満宮でしてやれることはないだろうかと。折角、遠路来ているのだから、やれることはやっておきたい。
 国隆の目に飛び込んできたのは御守りと同じ場所にディスプレーされている絵馬だった。北野天満宮ならではの臥牛が印刷された絵馬。普段、初詣などに行っても絵馬を書く習慣のない国隆だったが、使命感が急き立てる気分の高揚に煽られて絵馬の購入も即決していた。
 購入した御守りと絵馬を大事に両手で受け取る。
「絵馬のご記入は中門を出られた正面にあります絵馬所にペン等をご用意していますので、そちらでお願いします」
 と対応してくれた巫女さんに促され、国隆は中門を潜り参道を戻った。
 絵馬所には奉納された絵馬が多数掲げられていた。その建物の中に、簡易な机と椅子があって、机の上にはマジックペンや筆が用意されていた。国隆の他にも、修学旅行らしき学生の姿や、観光客の数人の姿があった。
 空いた椅子に腰を下ろす。御守りの入った紙袋は胸ポケットにしまい、絵馬だけを机の上に置く。手にしたのはマジックペン。筆はどうも苦手だった。
 さて、なにを書こう。そう国隆が悩みだした時、修学旅行生を率いる先生、ではなく観光タクシーの運転手だろう年配の人物の言葉が耳に入った。
「折角だから和歌で願いを書いたら?」
「和歌っていったら、五・七・五・七・七でしたっけ?ええぇ、面倒臭いですよぉ」
 坊主頭だから野球部か、グループの中心人物らしい少年がわざとらしく声を張り上げた。それに釣られて他の少年少女も決して嫌そうではない批難の声を上げる。
「菅原道真公といえば和歌の読み手としても有名なんだよ。それに道真公が生きていた平安期には、和歌を交わすことで想いを相手に伝えていたぐらいだからね。そう考えれば、道真公にみんなの願いを伝えるのも和歌にした方が効果的かもしれないよ」
 なるほど、和歌か。観光タクシーの運転手が語りかけている学生達は未だに渋る様子だが、国隆は興味をそそられた。ただ願いを書くのも芸がない。折角菅原道真を祀る北野天満宮に奉納する絵馬ならば、いっそ和歌で書き上げるのも一興ではないか。学生の頃、決して古典や詩歌が得意ではなく、どうせ将来の役にたつものか、とないがしろにしてきた国隆だが、そう思いが至ればあとは五・七・五・七・七が頭の中を駆け巡る。 
『合格は 君が明日の 第一歩 この苦しみは やがて糧となる』
 願いというよりも、娘への応援歌。
『君走れ やがてゴールは すぐそこに そこで待つよ パパとママ』
 娘は嬉しいのだろうか。
『願わくば 娘の志望 大学合格』
 俳句。
『春に咲く、娘の笑顔か 桜花――』
 おお、なんかいい感じだ。と国隆は上の句だけを詠んで傑作の予感に心躍らせたが・・・その後がでない。でない。でない。本当に言葉がでない。上を向く。下を向く。右を向く。左を向く。周りを見回してみる。頭を掻いてみる。鼻先を掻いてみる。頭を叩いてみる。
「こんなことがあるなら、もうちょっと勉強しておけば良かったなぁ」
 悩み抜いた挙句に思わず漏らした嘆息は、今更ながらの後悔。娘想いの父親としての自己満足度が急降下。
 でない!――と悩み続けてふと時計を見れば、次の仕事の約束の時間が迫っていた。
「しまった!」
 書きかけの絵馬。娘への想い。仕事。国隆は絵馬をとりあえず書き上げ、境内西南にある絵馬掛所に手早く絵馬を掛けると、その場でも軽く手を合わせてから走ってタクシーに戻った。
 タクシーに飛び乗った国隆に運転手は、
「随分、熱心にお参りしたようですなぁ」
 愛想の良い笑顔を見せた。
 隆国は息を切らし、雪崩出る汗を拭きながら、
「まぁ、娘の為ですから」
 と仕方なさを装って薄く笑った。
 遠ざかる北野天満宮一の鳥居。その姿を見送りながら国隆は――絵馬を書き直したい思いだけを悶々と残した。

 

『春に咲く、娘の笑顔か 桜花 特等席は パパとママ 安田国隆』

 

「ただいまぁ。美鈴、お土産買ってきたぞ」
「え、なに?」
「北野天満宮の御守り。これで合格間違いなしだな」
「・・・ふ~ん、パパは私が神頼みしないと受からないと思ってるんだ。娘の実力が信じられないなんて、それこそ信じられな~い」
「いや、そういう訳じゃなくてな」
「美味しいお土産もなさそうだし、さーて勉強でもしよっと。信用されていないみたいだしね」
「いや、だからパパはお前のことを想ってだな――」
 美鈴は手渡された御守りをしっかりと手にし、リビングを後にした。

(2010/09/21)

北野天満宮ホームページ⇒http://www.kitanotenmangu.or.jp/

京都にての物語紀行「北野天満宮

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