護王神社

~立つ!~

<登場人物>
・白池武雄(しろいけたけお) ・瑞枝(みずえ) ・家族

 

「どうして俺なんかの為にここまでしてくれるんだ?」
 そしたら瑞枝は、
「あなたが似ているのよ、亡くなった親戚に」
 と言って屈託なく笑った。
 そんな風に笑ってくれる人と、俺は初めて出会った。今まで、そんな人生ではなかったから――
 拾ったこの命。俺は、生涯を懸けてその笑顔を護りたいと思った。

 

 アスファルトで舗装された境内を、車椅子に乗った白池武雄は、妻の瑞枝と息子夫婦、孫一人に囲まれて大銀杏の前を通り拝殿へと向かっていた。
 拝殿前に出ると、左右に石造りの、狛犬ならぬ猪の『霊猪像』が阿吽の口元を天上に向け対峙していた。
 護王神社。京都御苑の西、烏丸通に面して表門を向ける、和気清麻呂と姉の広虫を祀る社だ。
 和気清麻呂は奈良から平安初期にかけての人物で、道鏡が皇位乗っ取りを計った際に道鏡による皇位継承を否定する宇佐八幡宮の神託を伝え、皇位簒奪を阻んだと伝わる。
 霊猪像は、道鏡に不利な宇佐八幡宮の神託を奏上した為に足の腱を切られ大隅国(現在の鹿児島県)に配流となり、その途上道鏡の刺客に襲われた清麻呂を猪の一団が現れ守り、無事に目的地へ導いたという伝説に依る。その為、通称『いのしし神社』とも呼ばれ、亥年生まれの守護社としても知られている。
 また、足の腱を切られた清麻呂だったが、後に癒えて元のように歩くことができるようになったという故事から、足腰の健康・病気怪我回復の信仰も厚い。
 車椅子での参拝者を想定し、拝殿後方から中門に通じるスロープが設けられてあった。孫は武雄の乗った車椅子を押してスロープを登り、息子はその後を、嫁と瑞枝は正面の階段を登って中門前に出た。
「じいちゃん、早く立てるようになるといいね」
 孫が武雄の後ろから囁く。
「リハビリ頑張ってるからなぁ。きっと大丈夫だろう」
 息子が腰に手を当て中門を見上げながら棒読み気味に呟く。
「本当に、きっと大丈夫ですよ」
 嫁が笑顔で励ます。
「あなた、暑くないですか?」
 瑞枝が初夏の日差しを気遣う。
 武雄は半年前に脳梗塞に倒れた。幸い命は取り留めたが、右半身の麻痺と失語症の後遺症が残った。失語症は話す為の機能に障害が残り、舌がもつれ言葉にすることができないというものだったが、相手の話す内容を理解することや、返す言葉を思い描くことに問題はなかった。
 被った帽子の庇の影に、変化に乏しい表情を沈めているだけの武雄だったが、意識は実にはっきりとしていた。

『ああ、なんて不甲斐ない!
 なんで俺がこんな憐れみを受けなければならないんだ!
 なにが「早く立てるといいね」だ!普段は俺を煙たがっていたくせに。弱った途端に善人面か。なんて薄情な奴だ!
 なにが「リハビリ頑張ってるから大丈夫だろう」だ!本当は俺がこのまま弱っていくのを望んでいるくせに。少しは扱いやすくなって良かったとほっとしているんだろう!ふざけるな!まだまだお前なんかに任せていられるか!
 なにが「本当に大丈夫」だ!なーにも考えてない空っぽの頭をして。どうせ面倒が増えた程度にしか思っていないんだろう。ああ、お前なんぞに面倒を掛けて堪るものか!
 瑞枝!
 ・・・本当にすまない。こんな情けない姿になってしまって。

 瑞枝、覚えているか?戦争孤児となってどうしようもなく荒れていた俺を。
 覚えているか?そんな俺と、お前が出会った日の事を。
 喧嘩の果てに刺された俺を、お前が病院に運んでくれた。死の淵を彷徨った見ず知らずの俺を、お前は真摯に看病し続けてくれた。お前は戦争で亡くした親戚に俺が似ていたからだと言っていたな。俺はその親戚に感謝したよ。お蔭でお前と知り合えた。
 それまで生きることに自棄になっていた俺は、お前と出会えてようやく生きる目標を持てたんだ。お前と共に生きたい。そして、お前を生涯に渡って護ると決めたんだ。
 けれど、随分とお前には迷惑を掛けてしまったな。どうも俺は堪え性がなくていけない。散々、お前にも頭を下げさせてしまったな。ただ、それでも俺はお前を護りたい一心だったんだ。
 なのに――俺はこんな体になってしまった。

 俺は、まだ生きるべきなのだろうか。生きている意味はあるのだろうか――』

 武雄は正面に見える中門をうつろな目で見上げる。中門には三本の鈴緒が吊るされ、それぞれの上部には金色の鈴が取り付けられている。門の上部に四枚の紙垂を下げた注連縄が渡され、掛けられた御簾越しに本殿を窺うことができた。

『和気清麻呂――そういえば、あなたは一度全てを失い、立つこともできなくなったそうだな。
 けれどあなたは、後に全てを取戻し、立ち上がってみせた。どうして、そんなことができたのだろうか。
 ――それはきっと――
 あなたが王権を護ったからなのだろう。王権を護ったからこそ取り戻せた。地位や名声も――傷付けられた足さえも。
 だとしたら、俺はどうだろう。俺は、護ってこれただろうか――瑞枝や、この馬鹿共を』

 瑞枝は気遣いの言葉を細やかに武雄に語りかけていた。
 息子家族は、とりとめのない会話で盛り上がっていた。

 強い日差しは露わになった腕を焼き、ヒリヒリとした感覚を武雄に与えた。
 倒れて以来の感覚に、武雄は空を見上げた。帽子の庇の影から抜け出ると、生涯感じてきたのと変わらない遠慮のない太陽の輝きを顔面に受けとめた。容赦のない陽光の照射。

『ああ、夏だ――あの時と変わらない夏だ。瑞枝と出会った、あの夏と――』

 風が吹き抜け、早や鳴きの蝉の音を聴いた。
 感覚と記憶の共鳴が、現在と過去とをリンクさせ、相乗のイメージの膨らみが、武雄に思考の転換を啓示する。
 能面のようだった武雄の表情が動いた。麻痺の無い左側の口角と頬が僅かに上がり、不器用ながらも笑みを浮かべた。

『そうだよな。何を迷ってたんだ、俺は。元から俺に、生きている意味なんてなかったじゃないか――
 そんな俺がここまで曲がりなりにもやってこれたのは、瑞枝を護りたいと思ったからだ。
 もし、俺に生きる意味があるとするなら――今もあの時と同じく、瑞枝を護りたいと思い続けることなんだろう。
 まぁ、こんな体になっちまったから、どれだけのことができるかはわからないが――』

「どうしました?」
 武雄の視線を感じた瑞枝は、柔和に微笑んだ。その微笑みには出会った頃とは違い、憂いが含まれているのは、共に積み重ねた年月の顕れか。

『護るか――瑞枝を。この馬鹿共を』

 突然、孫の腕に車椅子が揺れる震動が伝わる。慌てて孫は車椅子を強く握り締め、震動を抑えようとする。
「どうしたの、じいちゃん!」
 その声に息子が武雄の傍らに寄る。
「どうした?父さん、どこか苦しいんですか?」
 嫁と瑞枝も不安気に武雄の傍らに寄り、武雄の動きを見守る。

『だったら、いつまでもこんな状態じゃいけない。こんなふざけた扱い、もう、うんざりだ!』

 武雄は――前屈みになり、動かない右手を太ももの上に乗せ、動く左手を車椅子の手摺に掴まり力を込める。動かない右足は足置きにそのままに、左足だけを足置きから降ろして地面を踏み叩く。
「父さん、危ないから座って!」
 息子は武雄の両肩に手をかけて押し留めようとするが、武雄は肩を震わせ息子の手を振りほどいた。
 仕方なく、息子は座らせることを諦め武雄の右半身を支えた。

『和気清麻呂――あなたは護ることで再び立ち上がったのだろうが、俺は護る為に――護る為に、もう一度立ち上がる。さぁ、見届けてくれ!』

 武雄は大きく口を開くと、
「たぁああづぅうう!」
 はっきりとは聞き取れなかったが「立つ!」と渾身の叫びを発し、深く刻まれた皺の中に必死の形相を浮かべ、息子に支えられながらもその場に立ち上がってみせた。それはまるで、生まれ落ちた馬の赤子が生きる為に立ち上がろうとする姿のように、全身を小刻みに震わせ、弱々しくも、実に生気に満ち溢れていた。

 
(2015/08/26)

護王神社ホームページ⇒http://www.gooujinja.or.jp/

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