「炎に舞う蝶」

<登場人物>

・濃姫(のうひめ)

時代:安土・桃山期

※この物語は京都が舞台ではありません。

 燃え上がる炎は華麗にして優雅。乱れ舞う火の粉は幻惑の輝き。
 磨き抜かれた床板は煌々と、高き天井は深々と。
 赤き空間にあって、超然と佇む影が一つ。炎を照り返す艶やかな豊かな黒髪に、白く透き通った美しき容貌。召したる着物は煌びやかで、それはまるで狂おしき女神のような神秘の姿。ゆらゆらと立ち上る白煙が、曖昧にして神々しさに手を携えていた。
「御方様!」
 女神を呼ぶ声が響く。女神――それは信長が正室、濃姫。
 だが、濃姫は緩やかに微笑むと、
「近寄るでない信雄殿。そなたは人じゃ。悠々とこの世を生き長らえるが良い」
 手には白銀の刃を携えて。
 思えば信雄は、濃姫の申し出を警戒すべきだったのだ。

 1582年(天正10年)6月2日、明智光秀の謀反により、信雄の父、織田信長は本能寺にて討たれた。
 安土城にあった濃姫は、その他の奥方や姫君と共に、蒲生賢秀の手により日野へと逃れた。
 そして6月13日、山崎において羽柴秀吉が明智光秀を破ると、信雄は安土城の奪還に動いたのだが、その軍中に濃姫が現れたのだ。
 信雄は今だ安土城には明智秀満がおり、危険ゆえにと日野へ引き返す事を薦めたが、濃姫は頑として首を縦に振らず、同行する事を求めた。
 信雄は無下に濃姫の申し出を退ける訳にもいかず、已む無く了承したのだが・・・
 安土城に入った濃姫は、なんと城に火を付けさせたのである。そして自らは天守閣に火をかけ、炎の中に身を置いたのだ。

 信雄は濃姫の真意を測りかね、尚も叫び続けた。
「御方様、なぜこのような事を!」
 すると濃姫は僅かに天井を仰ぎ見、
「全ては、浄化の為・・・」
 炎の勢いは、濃姫を包まんばかりであった。
「光秀殿がここを治むるならば、それも良しと思うたが、織田の手に戻るとなれば、またこの城は鬼城と化す。あの鬼めの痕跡を残しておいてはならぬのじゃ。鬼・・・信長の・・・」
 床を這う火炎の舌なめずりが、濃姫の着物の裾を掠める。
「悪逆非道、悪鬼羅刹。信長の重ねたる罪状数知れず。光秀殿と謀りて、まんまと退治せしが、あの猿めが余計な真似を」
 本能寺の裏に隠された真実。濃姫が策謀。信長の姿に鬼を見、その鬼を野放しにしておく事を潔しとせず。
「まさか・・・」
 濃姫の告白に、信雄は言葉を失った。
「殿、最早ここは危険でござる!」
 家臣に肩を揺すられ我に返った信雄は、濃姫を求めるように手を伸ばすが、
「さぁ、お行きなされ。わらわも鬼に身を任せし罪深き者、この業火に焼かれ、浄化され、願わくば極楽浄土へ・・・」
 ついに炎は濃姫を包み、火炎を纏うたる濃姫は安らかなる笑みに、白銀の刃を自らの喉に突き立てた。それはかつて濃姫が父、道三より賜れし短刀。
 ゆっくりと崩れ落ちた濃姫は、最早動かぬ無魂の塊。ただ乱れ舞う火の粉が、飛び去りし姫の魂を蝶に似せた。
 濃姫の霞む姿に信雄は、
「よいか、この事、一切他言無用! この火は儂の命ずる事なり」
 やがて炎は天守閣を全て包み込み、信長の栄光を灰に帰した。

 安土城炎上は、信雄最大の愚行と伝わる。
 後に濃姫はその信雄に養われ、この後も生きたという。しかし、その劇的な登場とは裏腹に、その後は二度と歴史の表舞台には現れず、その死も、実に曖昧なものであった。
 魂は静かに舞ったか。それとも・・・

(2007/12/10)

京都にての歴史物語目次へ トップページへ