「半蔵門」

<登場人物>

・服部半蔵(はっとりはんぞう)

時代:安土・桃山期

※この物語は京都が舞台ではありません。

 1596(慶長元年)7月のある暑い日。
 屋敷の一室で床に伏していた半蔵は、ドタドタとけたたましい足音を響かせながら廊下を進んでくる懐かしい声を聞き、はっと目を開いた。
「案内、無用!」
 まぎれもなく、主人家康の声であった。
 半蔵は立ち上がろうとゆっくり足に力を入れるが、すぐに体勢が崩れてしまい、立つ事が出来ない。仕方なく半蔵はその場に正座をすると、頭を下げ、家康を迎えた。
 半蔵こと服部正成は、この時55歳。数年前から病に侵されていたにも関わらず、その後も家康に付いて働いていたため、その無理が祟ってか、ついに数ヶ月前より寝込みがちになってしまったのである。
「おお、半蔵。こら、無理をいたすな。しっかり寝ておれ」
「しっ、しかし」
 半蔵は挨拶もままならず、部屋に入ってきた家康によって無理矢理寝かされてしまった。
 苦笑いの半蔵。仕方なくそのままの格好で、
「お久しゅうございます」
 軽く顎を引き、挨拶とした。
 すると家康は、
「久し振りというほど経ってはおるまい」
 笑って腹に差した扇子を取り出し、顔を煽った。
 家康はつい半月前までは京におり、江戸に入ったのは昨日のことであった。
「なに、死が近い者には、一日が長く感じられるものです」
「なにを弱気な事を。ほれ、儂の背を守る者がおらぬで、なんとも淋しいわ。早く病を治し、儂の背を守れ」
 家康はそう言うと、くるっと上半身を捻り半蔵に背中を見せ、閉じた扇子でペンペンと叩いて見せた。
 家康の背。そう、半蔵は家康の初陣以来、ずっと家康の背を守り続けてきたのだ。
 半蔵の脳裏に、遠い過去が甦る。
 半蔵は戦となれば、いつも家康の背を守っていた。あの三方ヶ原の戦いにおいても、半蔵は一人馬を駆け浜松城に引き上げる家康の後方に付き、背を守り抜いた。また本能寺の変の折、伊賀越えにおいても、配下の者を伊賀にやり援軍を求める一方で、半蔵は家康の後方を離れず、前方を固める本多忠勝と協力して家康を守り抜いた。そして何よりも、半蔵は配下の伊賀者を使い諜報活動を行う事で、家康の背、つまりは敵に裏をかかれぬよう家康の目となり耳となり続けたのだ。
 しかしながら、半蔵は肩を垂れる。自分の体の事は自分がよく知っているのだ。どうだろう、このやせ細った体。もって後1、2ヶ月。最早かつて「鬼の半蔵」と呼ばれた姿はここにはないのだ。
 そんな半蔵の心情を察してか、家康は優しく微笑むと、
「確かにお主には、最早儂の背は守れぬかもしれぬ。しかし、これからお主には徳川家の背を守ってもらう事になる。なぁ、半蔵よ、お主が築いた搦手門。なんと呼ばれているか知っておるか?」
 この瞬間、家康の言わんとしている事を察し、半蔵の目には涙が滲み出した。
 江戸城の搦手に当たる門は、家康に命じられ半蔵が指揮を執り築いたものであった。正式には麹町御門と呼ぶのだが、実はもう一つ、正式名称よりも人々に親しまれている呼び名があった。
 もちろん、それは半蔵も知っている。しかし、半蔵の口からはその呼称が流れ出る事はなかった。嬉しさに言葉もない。
 そんな半蔵に替わって、家康が一呼吸置いて言う。
「半蔵門じゃ。お主はこれからも儂のみではなく、徳川家全体の背を守り続けるのじゃ」
「あ・・・ありがたき幸せにござります」
 むせび泣く半蔵は、起き上がると床に額を擦り付け家康に感謝すると共に、家康に出会えた事を今更ながらに喜びとした。

 服部半蔵正成はこの数ヵ月後、この世を去ることになるが、半蔵門はこの後250年の徳川時代を守り続け、現在に至っても、その甲州街道に面する堂々とした門構えは変わらない威風を漂わせている。

(2007/12/10)

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