「理の鎖」

<登場人物>

・源為朝(みなもとためとも)

時代:平安期

 

 攻め手の大将は朗々と告げる。
「我は清和天皇の九代の末裔、下野守源義朝である。勅命である、すみやかに退散いたせ!」
 一方、白河北殿の西門を守る大将も劣らず告げる。
「院宣をお受けしている厳親判官(為義)殿が代官、鎮西八郎為朝が一陣を承り御守りしている!」
「そなたは我の末の弟ではないか。弟が兄に矢を向けては神仏の加護を失うぞ!」
「なんの、弟が兄に矢を向けては神仏の加護を失うが道理ならば、子が親に矢を向ける道理はいかが!」
 義朝はこれ以上の問答は不要と押し黙り兵を前に押し出し、為朝も備えを整え、これに対抗した。やがて両軍は激突し、乱戦となった。戦局は為朝方の必死の抵抗もあり拮抗するが、次第に数に上回る義朝方が優勢となった。劣勢を一気に挽回しようと、為朝は篝火の光の先、軍勢越しに義朝を見出したが幸い、得意の強弓を引き絞り狙いを定めたが――無念の面持ちで弓を下ろし、下知した。
「一度、退くのだ!」

 保元元年(1156)7月、鳥羽法皇の崩御を機に、崇徳上皇と後白河天皇の対立はついに武力衝突に至った。世にいう保元の乱である。その原因を端的にいってしまえば皇位継承問題である。我が子を即位させたい崇徳上皇と、その反対勢力である後白河天皇。それに関白藤原忠通と左大臣藤原頼長の兄弟争いが加わって、忠通が天皇に近付き、頼長が上皇に近付き、更には双方が武家を囲いだした。主なところで上皇方には源為義親子や平忠正等が。天皇方には源義朝や平清盛等が従った。
 戦端を切ったのは天皇方だった。夜陰に乗じて上皇方の白河北殿を襲ったのだ。
 白河北殿の西門を守る為朝の元には、先に平清盛が攻め寄せたが、これを退けた。そして次に攻め寄せてきたのが、為朝の兄である義朝だった。義朝は親兄弟と袂を別ち、天皇方に従っていた。
「なぜ兄上を説得なさらないのです!」
 戦前、為朝は父親の為義に詰め寄った。しかし為義自身、老齢を理由に固辞したにも関わらず、上皇方からの再三の召集に本意ならずも参じた経緯もあり、
「一方が敗れても、一方が残る理がある。一族の為と思えば、これも悪くあるまい」
 と、諦めにも似た表情で答えたのだった。
 為義の言葉には確かに一理ある。だが一方でその理は、為朝の武勇を戒める鎖ともなっていた。
――敵を倒せぬとは、やっかいなことだ。
 今まで勝手気儘に傍若無人を尽くし剛勇振りを示してきた為朝にとって、戦で手心を加えることほど難しく、面倒なことはなかった。だが、傍若無人を尽くしてきた為朝も、老いた為義の意向を無為にはしたくなかった。
 そんな為朝の想いをよそに、義朝は休まず猛攻を仕掛けてくる。このまま手をこまねいていては、門を突破されかねない情勢だった。為朝はしばし思案すると、傍らに控える須藤九郎に、
「兄上を矢で威嚇して敵を退けようと思うが」
 と質すと、須藤は頷きつつも、
「それはよろしゅう御座います。しかし、お間違いの御座りませぬよう」
 義朝を間違っても射殺さぬようにと釘をさした。
 為朝は口元に笑みを浮べ、
「まさか」
 と告げて、大矢を強弓につがえた。
 為朝は7尺(約2メートル10センチ)の身長に、左腕が右腕よりも4寸(約12センチ)も長い強弓を引く為に生まれてきたような特異の体型であり、かつその狙いを誤ることはなかった。現にこの戦でも一射で二人の武者を倒すなど、すでに多くの武者を射倒しており、己の弓の腕に微塵の不安もなかった。
 軍勢に紛れ義朝が見出せる場所まで動くと、強弓を引いて躊躇いなく大矢を放った。大矢は闇夜を切り裂き、狙い違わず義朝の兜の星を打った。
 怯んだ義朝に、為朝は大音声で告げる。
「兄上、二の矢をご馳走いたそう!」
 その声は、義朝ばかりではなく多くの敵兵の心胆を凍らせ、多くの味方の戦意を高揚させた。その姿はまさに軍神の如くであった。
 これには義朝も堪らず退くしかなかった。
 為朝は見事に門を守り、理の鎖に縛られながらも大いに面目を施したのだが――

 この後、義朝の献策による天皇方の火攻めを受けて白河北殿は炎上し、上皇方は壊滅した。
 理とはいえ、京を落ちていく為朝の胸には不完全燃焼な戦意と、無念さだけが残った。

(2008/06/24)

京都にての人々「源為朝

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