「歓待の茶」

<登場人物>

・古田織部(ふるたおりべ)
・文英清韓(ぶんえいせいかん)

時代:江戸期

 

 案内されたのが茶室であったので文英清韓はふと眉を顰めたが、室内に端座する古田織部の姿を見出すと、悟ったように柔和な表情となって歩を進め客席に端座した。
「この度はわざわざ見舞いにおいで頂き、かたじけなく存じます」
「お体の具合がよろしくないとお伺い致しましたが?」
「はい、この通りあまりよい具合で御座いません」
 織部は自嘲するような表情を浮かべながら身に纏った全身墨一色の衣を見せびらかすように緩やかに両手を広げ、また元のように両手を正座する膝の上に戻した。師の千利休の茶に比べ、豪快な茶を信条とする織部にして墨一色の衣で茶の席に出るなど普段ならありえない。つまりは衣によって具合の悪さを演出していたのだ。
「普通にお呼びだてしても、応じて頂けぬと思いましてな」
 織部の趣向に、清韓も思わず笑みを浮かべ、
「お心遣い、かたじけなく存じます」
 静かに頭を下げた。だが、頭を上げた清韓の表情からは笑みは消え、深い憂いが漂っていた。
「しかし、この事が大御所様の耳に入っては・・・」
 時は慶長19年(1614)8月26日。先月、世に有名な方広寺鐘銘事件が発生した。それは豊臣家が再建していた方広寺の梵鐘の銘文に「国家安康」とあったものを家康の名を分断し徳川家を呪詛するものだとして、徳川家が豊臣家を糾弾したのだ。実はこの銘文を選定したのが南禅寺の僧である清韓であり、その為今月に入ってから清韓は片桐且元に伴われ駿府まで銘文の弁明に赴いていたのだが、弁明は受け入れられずに蟄居を命じられて失意の内に帰京していたのだ。
 蟄居中の身である清韓を茶席に招いたなどと徳川方に知られれば、織部にも糾弾が及ぶ危険性を孕んでいる。当然清韓もそれは承知しているので形通りに招待されたならば丁重に断るところだが、今回清韓に送られた織部の文には織部がまるで重篤であるような文言が記され、これが最後とばかりに来訪を懇願していたのだ。これに長く織部と友誼のあった清韓は我が身を憚りながらも伏見の織部屋敷を訪れたのだった。
 深刻な眼差しを向ける清韓に対して、織部は一向気にせぬ素振りで、深く刻まれた皺面に柔和な笑みを湛えたまま静かに茶を点て始めた。
 繊細でありながらも悠然とした織部の手前から、清韓は織部の心を読み解く。織部は今回の事件により失意にある己を励まそうとしてくれているのだ。清韓はその思いやりに深い感銘を受け、より以上に感謝した。思えば織部は師である利休が豊臣秀吉から蟄居を言い渡され堺に戻る為に京を離れた際にも、秀吉を憚り見送る者も無き中に唯一細川忠興と淀の渡し場まで利休を送り慰めの言葉をかけ、淀川を下り行く利休の船を最後まで見送ったという。清韓は織部の中に強き信念を見た。その信念とは一途さとでもいおうか。一途故に茶を極め、一途故に師が嘆けばこれを慰め、一途故に友が失意に沈めばこれを励ます。だが一途さは時に周囲との調和を失い己の身を危うくする。清韓はこの乱世、武人として生き抜いて来た来歴を持つにも拘らず齢七十を越えながらも一途さを失わぬ老人の生き方に共感しながらも行く末を案じた。
「まぁ、一服いかが」
 清韓の心配をよそに、織部は静かに濃茶の入った器を清韓の前に差し出した。その所作に淀みはない。
 清韓は落ち着かぬ複雑な心境にありながらも、作法に従い茶を飲んだ。

 その茶は――旨かった。
 清韓は我知らず、一時憂いを忘れ、茶に親しんだ。

 織部は清韓の一時の憚りとならぬよう静かに端座したまま、そこにあった。

(2009/06/25)

京都にての人々「古田織部

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